NYに引っ越してから、日本の友達ふたりと文通している。
本当は手紙を手書きして、封筒に入れて、切手を貼って、ポストに投函するという、アナログでやりたかったのだけれど、ひとりは、相手の要望により、もうひとりとはコロナの影響で1通目の国際郵便が届かず、Eメールでやりとりすることとなった。
文通をはじめて気づいたことがある。
立ち止まれるのだ、ということ。
立ち止まって、改めて呼吸を吸い直して、考えられるのだ。他者から具体的に、私に向かって言葉が投げかけられ、考える必要が生まれる。たったひとりのことを思い浮かべて、「この人にはこういう例えが伝わりやすいかな」「前、一緒にこの話をしたから、こういう書き方にしよう」と、それぞれの文脈を取り入れ書いていく。ブログが何本も書けそうなくらい、濃密で読み応えのあるやりとりがすでにいくつも生まれている。公表されていないのが惜しいくらい。
最近は真剣な話題も多く、メールを受け取ると、一度読み、一晩か二晩か置く。時間をたっぷり取って、読み返しながら書く。
文通は、立ち止まって、相手や話題としっかり向き合うことになる。
ビジネスメールとも違う。
メッセージアプリの、長くは語らないポンポンとリズム良く交わされるコミュニケーションでは成立しにくい。
SNSのタイムライン上で発生する、公開されていることが前提のやり取りでもできないことだ。
ある日受け取ったメールで、とあるニュースの話題が友達から振られた。「どう思う?」と。その話題は、1年前か2年前くらいにじっくりと考えた事柄と重複するものだった。そして今も私のなかで大きな話題として頭の中を占めているものだった。
一生懸命返信を書いていて気づいたのは、じっくり考えた過去の時点から、考えが深化していないということだった。
愕然とした。
自分が思っていたより、その話題としっかり向き合っていていなかったことが明らかになった瞬間だった。
それなりに関連事項の情報も読んでいたし、SNSでも情報を追いかけていたし、活動もしてきた。けれど、具体的な思考のアップデートはなかったのだ。毎日のように日常的に触れている話題だったので、もっと自分の考えは深まっていると思っていた。
確かに、知っていることは増えていた。様々な論者、団体、法律や裁判事例。
しかし、根本的な自分の芯となるような考え方は変わっていなかった。当時もモヤモヤしていた部分は今でも、モヤモヤとしていたのだった。
情報は触れているだけでは駄目なのだと痛感した。
触れる情報も日々のニュースや人々の雑感ばかりでは駄目なのだと思った。
友達に真摯に返事を書きながら、
これからはもっと、立ち止まって考えようと気持ちを改めた。
ニュースやツイッターなどの細切れの情報だけでなく、まとまった文章や本論文を読むという方法で、勇気を持って立ち止まろうとおもった。
そして今は、楽しみに文通の返事を待っている。