今日は大学学部生時代の友人とビデオ通話をした。出入り自由の参加で合計7人が参加した。同じ学部だった友人たちだ。卒業からは15年経っていて、卒業以来初のコミュニケーションという人もいた。
パンデミックがなければ、日本の友人たちとオンラインでおしゃべりするのが身近になるのは、もっと先のことだったと思う。
人生の4年間、濃淡はあれど蜜に関わり合った人々。授業で会うだけではなくて、カリキュラム向上の学内署名運動をやったり、スマトラ島沖地震の募金活動をしたり、数え切れないほどの活動を一緒に企画、実行した。
その人達が私の人生にあまり登場しなくなり、逆に私も彼らの人生に登場しなくなり、その間には15年という歳月が横たわっている。
時差を乗り越え朝5時過ぎ(日本時間19時)に接続すると、当時と見た目も声も変わらない面々が揃っていた。
子どもを含む家族や、あの時は買えなかったような高価なお酒の瓶が画面に映っているにもかかわらず、彼らから感じた変わらなさに、瞬間時空がねじれた。
きっと彼らにも15年の間に、転機やアップダウンもあっただろうし、方向転換や挫折、他者からは見えないような成長もあっただろう。私の15年を振り返っても、文字通り生まれ変わるような経験もし、大学時代の自分とは地続きであっても隔絶の感がある。
彼らとの会話のなかで、思考回路の一部が過去の二十歳前後であった4年間に引きつけられ、当時お互いに共有していたリズムや役割分担を引き出そうとしていたり、自分の知っている過去の彼らと今の彼らを比べたりしていた。それはとてもくだらない、かつ気が利かないやり方だと思ったけれど、時空のねじれを頭と心が処理できなくて、思わずやってしまっていた。
一言でいうと、ダサいことしたなと思う。
時間が少し経つと、今ここに存在する彼らの言葉を受け止め楽しんで、この場にいる感覚を感じたいと思えるようになって、過去の記憶の上に、会話や自分の感覚を乗せていけるようになっていった。
気づけば午後1時。日本時間は午前3時。
15年がまるでなかったように淀みなく膨らんでいく会話に、私の時空はねじれたけれど、それをちょっとずつほぐしたり引き伸ばしたりして、違和感もそのまま今であると抱え、良い時間を閉じることができた。
またやろうと約束して通話画面を閉じた。
(3日目/953文字/55分)