家族の伝統、家族の距離

文章がうまくなりたくて、毎日書くことに挑戦しています。

2日目。

 

人生初めてのクリスマスツリーを買った。生木だ。

NYではサンクスギビングが終わる頃、街中にツリー売りが現れる。近所にもひとつ現れた。

雨の日をやり過ごし、パートナーと買いに行った。松竹梅と表記して門松を売るような感じだろうか。ツリーにも等級があった。枝が多く背丈の高いものが一番高価で、背丈が小さく、枝が少なくなっていくほどに安くなる。

165センチほどで枝はそこそこのお安めのものと、台座を買った。

しめて120ドルほど。こういう屋台でもクレジットカードやスマートフォンで決済できるところに、米国を感じる。

結構高かったけれど、初めて買うツリーは美しく、香りもよく、帰り道の気分は暖かだった。

 

家に帰ると、パートナーが台座と木を組み立てた。夕食後、テキサスに住むパートナーの両親とオンライン電話をつなぎながら、ツリーの飾り付けをした。オーナメントは、両親がテキサスから郵送してくれた。

 

年季がかかったそれらにはひとつひとつ物語がある。

 

このオーナメントはパートナーの家族の伝統であると聞いた。

両親は、いつか子どもたちが自分の家族を持つときに渡したいと、毎年ひとつずつ子どもたちに選ばせ、買い増やしていったという。

両親がこの話をしてくれたときに、

「これは私達が作った家族の伝統であなたたちが受け継いでくれたら嬉しいけれど、家族の伝統と文化は自分たちでつくるものだから」

と決して押し付けなかった。親子であっても個と境界線を大切にする姿勢に心を揺さぶられた。私とパートナーは、この伝統を嬉しく引き継いだ。

 

私は実家の経験から、法的結婚や血縁家族が良いものだとは思えずにいた。その経験は、頭を柔らかくしてくれ、血縁家族という生き方だけが幸せに生きる方法ではないと考えるようになった。

 

テキサスの両親の娘として人生を歩み始めてからは、血縁家族は機能していれば悪くないなと思うようになった。そう思うとき、目の前にある愛と自分の過去の記憶から泣きそうになる。機能している血縁家族やその愛が、いかに美しく、優しく、人間が飛び立つ安心な巣として重要なものかを彼らに教えてもらっている。

 

今年、コロナが落ち着いているときに行ったブロンクス動物園で、2020年の分をひとつ買い足した。ガラス製のラッコ。理由は、ラッコがふたりで来世に転生したい動物暫定1位だから。

 

私とパートナーがおばあちゃんになる頃には、アンティークと呼べるかなあと思いながら飾った。

 

(996文字/55分)

 

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クリスマス終わってもそのまま。きれい。