ダウンタウン街歩き(後編)

ピクルス屋を出て、交差点を渡る。角には野宿のおじちゃんが、建物の出っ張りをうまく利用して小さな小屋掛けをしていた。野宿者運動に人生賭けて関わっていた私は、考えや思いが一瞬にして巡る。ひとまず、彼にコミュニティがあることを願った。

 

パートナーとの会話に夢中になって歩いていると、イーストビレッジに着いていた。街角の伝統この地域は下北沢のような雰囲気でとても好きだ。高円寺も思い出す。金があったらここに住みたい、かもしれない。去年からずっと行ってみたかった本屋、Book Club Bar(ブック・クラブ・バー)が今日の一番の目的地だ。隣のチャイ屋も気になるが、今日はブック・クラブ・バーに来るために外出したのだ。

入ると右手にコーヒーマシーンが置かれた背の高いカウンター、左にはモーレスキンのノートや、新刊。店内中央と、奥両壁には、本棚。新刊や特集。本棚のセクションは、4才以上の子ども向け、小説(fiction)、政治と人文(politics)、ニューヨーク、詩集、心理学と哲学、グラフィック・ノベル(graphic novels)など。それに囲まれるようにゆったりと置かれた1人がけソファの席が3組みほど。左手には壁を背にしたテーブル席。いずれもガラスと木でできたついたてで仕切られていて、ソーシャルディスタンスを保てる。反対の角に小さな舞台がある。オープンマイクやポエトリー・リーディングをしていたのかもしれない。ダークブラウンの木の床や、暗めの塩梅の調度と調光が落ち着いた雰囲気。

 

ようやく来れた!来てよかった!もうこの雰囲気だけで、十分だ。最高。

 

カウンター裏の書棚ひとつが丸ごと予約購入された本で埋まっていて嬉しかった。

 

しばらく本を見ているとひと席空き、座ることができた。ビール(6ドル)とワイン(90ml、8ドル)を注文した。ニューヨークでは酒のみの提供だと店舗区分が変わるようで、「1ドルのパン」を店員さんに勧められ買う。カリふわに焼かれた薄焼きのパンに、たっぷりとフムスがついてきて驚いてしまった。営業形態を保つための建前じみたたった1ドルのパンも、抜かりなかった。

 

乾杯する。久しぶりのビールがうまい。パートナーは最新の、黒人人種差別に関する本を読んでいる。私もルピ・クーアの詩集と、ペンギンブックスのグレタ・トゥンベリさんの自伝を少し読んだが、ほとんどは、店内を眺めて過ごした。

 

ガレージで図書館とも貸本屋ともつかぬものを営むことを想像した。良いかもしれない。子どものような夢想だ。これは最近よくする想像なのだが、未踏の書店、森くんの汽水空港の影響がある。

本当にいいかもしれない。

 

日本語のようにとはいかないが、英語を眺めたり、読んだりするときの抵抗が少なくなってきているのが嬉しい。以前は背表紙を、サラッと読むことさえできなかった。

 

外が暗くなって、お向かいの公園にうっすらと伺えた新芽が見えなくなる頃に、丁度ビールもワインも空になった。雪景色のニューヨーク市立図書館の絵柄のパズルと、孔雀の羽のような模様のノートと、ルピ・クーアの『home body』を買って外に出た。

 

(1286文字/45分/33日目)2033-01-01

まさかの前中後編で終わらなかったので続きます。

 

ブック・クラブ・カフェのサイトはこちら。

bookclubbar.com

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Book Club Bar(入り口からの眺め)

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いい席。本が読みやすい目に優しい光。

ルピ・クーアの詩集はこちら。「ミルクとはちみつ」が陰だとしたら、こちらは陽。

(追記:2021/2/18 読み進めたらそんなことなかった。たまたま読んだ箇所が陽だっただけだった。)

rupikaur.com

ダウンタウン街歩き(前半)

チャイナタウン、リトル・イタリー、イーストビレッジをうろついてきた。

本日は氷点下2度、体感温度は氷点下6度。

寒い日の外出にも慣れてきた。寒いのが苦手な夏派だったのに、ニューヨークのおかげで今ではすっかり冬も好きだ。

 

頭からすっかり抜けていたが、今日(2月12日)は旧正月。1年ぶりのチャイナタウンに、温かい汁麺料理を目指してきたが、どの店も閉まっていた。歩道にはみ出している八百屋も、わっと漢字が目に飛び込んでくる中国漢方やお茶の店もやってない。街も新年の飾り付けなどがされているわけでなくシャッターが降りた静かな中華街、これはこれで珍しいものを見た。そのまま歩いてリトル・イタリーへと抜けた。

 

今日からニューヨークではレストランやバーでの店内飲食が再開された。2020年12月14日から約2ヶ月、全店アウトドアダイニングのみの営業だった。

リトル・イタリーの端っこのダイナーで、目玉焼きとベーコンとチーズのサンドイッチと砂糖とミルクでしっかり甘いコーヒーを頂いた。白砂糖の主張が凄い。日本の缶コーヒーが思い出された。次々やってくる常連と思しき人達のオーダーを受け付けるマダム。「久しぶりだね、元気だったかい。心配したよ」と客と喜び合う。「いつもので。BLTとポテトフライ」とオーダーが通されれば、シェフの手元からいくつもの油のはぜる音が重なって届く。

人の営みが愛おしい。嬉しい。街はこうでなくちゃ。

パートナーが頼んだ紅茶のカップは、新宿のカフェ・ラバンデリアと同じ。

トイレが汚い恐怖も久々に味わう。思わず小走りで席に戻った。

カウンター奥の冷蔵庫とジューサーバーには故障中の張り紙。

生きている冷蔵庫の中には、ソフトドリンクやトマトソースのボトルに混じって、ドリップされたアイスコーヒーの大きなサーバーがふたつ並んでいた。ニューヨークに住む人たちは、真冬でもアイスコーヒーを飲むのだ。街のカフェやスターバックスにコールドブリューコーヒーをすすめる看板が1年中出ているのは、店員さんがディスプレイをサボっているんじゃない。売れるのだ。氷点下でアイスコーヒーやコールドブリューが。

 

小さな店。現金で支払い、「ありがとう」と店を出る。

続きは明日。

 

(907文字/40分/31日目)

 

 

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年に一度楽しみにしているテレビ番組

米国では、野球やバスケットを群で抜いてアメリカンフットボールは不動の人気スポーツだ。プロリーグのNFL(ナショナル・フットボール・リーグ)は真冬にシーズン戦の最高潮を迎える。王座決定戦となる試合はスーパーボウルと呼ばれ中継もあり、お茶の間の人気番組だ。

 

私も年に一度のスーパーボウルの日を楽しみにしている。試合よりも、Puppy Bowl(パピー・ボウル)と呼ばれる前座番組と、間に流れるコマーシャルなどを楽しみにしている。スーパーボウルの日はピザの出前を取って、コーラでも飲みながらというのが定番だと思うが、私は前日に屋台で新鮮な果物を何種類かを買ってきて備えた。当日は朝から時計を気にして過ごした。

 

パピー・ボウルは、シーズン最終戦であるスーパーボウルの前座として、合計4時間にも渡る番組。内容は、アメフトコートを模した屋内プレイグラウンドのセットで、子犬たちが遊び回る(プレイする)のを、アメフト中継になぞらえて解説したり、登場する子犬の紹介したりする。それだけなのだが、動物を見るのが大好きなのでとても楽しみにしている。日本では犬派猫派という他愛のない話題のネタがあるが、犬だけではなく、猫も登場する。猫はVIPルームと称されたセットの中でくつろぎながら、パピー・ボウルがプレイされるのを観戦しているという体で登場する。VIPルームというのがなんとも猫らしい。

登場する犬たちは、全員がシェルター出身の保護犬であるのがいい。血統書付きだのなんだのでないのに好感を持っている。そのうちの何匹かまだ保護状態で、実際にウェブサイトから申し込んで、保護者(飼い主)になることもできる。

 

スーパーボウルの日のCMは特別で、この日にしか見れない。今年のスポンサーは、ペプシマツダ、イエローテイル(ワイン)、ドミノピザなど。大御所俳優やタレントもCMに出演する日本とは違い、通常、米国の有名俳優や有名ミュージシャンなどはイメージ戦略等の関係でテレビCMに出演しない。この日のCMだけはスポンサーも金を存分にかけ、有名人たちも出る。資本主義のカタマリっちゃあそうなのだし、そういう思いを全て脇にどけておくのは難しいが、なんにせよ面白い。

 

開会式やハーフタイムショーが好きな人も多いだろう。

The Weekndなど有名所に混じり、今年はバイデン大統領とファーストレディーのジルさんが中継(録画?)で登場した。一緒に映る彼らの2匹の犬も保護犬で、ホワイトハウスで暮らす初めての保護犬ということだ。親しみが増す。ふたりはエッセンシャルワーカーへの感謝の言葉を述べ、スタジアムにいる人びととともに黙祷の時間を持った。黙祷の時間、スタジアムは明るい声でざわついた。トランプ支持者たちであろうというのがパートナーの推測。私には真っ当と思える謝辞と黙祷さえも受け入れられないのか。壁は厚い。

 

夜にはスーパーボウルがあり、パピー・ボウルは長いため途中で疲れてしまう。録画してまだたっぷり残りがあるのが今週の楽しみだ。

 

(1215文字/45分/30日目)

 

 

 

 

 

メンタルヘルスとコロナと米国保険の話

米国ではカウンセリングが保険適用になる。日本では満額払わなければならない。

 

米国は、日本でいうところの国民健康保険のような国営の医療保険は存在せず、個人で民間の保険に加入する必要がある。山ほどある中から会社を選んでも一息つけない。値段によって保険でカバーできる内容も千差万別だからだ。医者や、カウンセラーを選ぶのも、自分が加入している保険に対応しているかどうかを調べる必要がある。家から近くても、良さそうな人でも、施設が新しそうでも、保険外であれば満額支払わざるを得ない。

 

ニューヨークでは、1セッションあたり満額で100ドルから250ドル(1万円~2万5000円)、日本では7000円~1万円ほどが相場ではないだろうか。今は、保険適用内で1回30ドルの請求だ。

 

ニューヨークでカウンセラーを選んだときは、サイトで日本語を話せるカウンセラーを探し、さらにその人のウェブサイトや、カウンセラーのネットワークのサイトを読み、対応保険会社や専門を確認する。また、当人のジェンダーを公開しているのも選びやすくなっていい。

いきあたりばったりで通い始めなくてもいいほどの情報が公開されているのはありがたい。

 

パンデミック以来、コロナ関連支援のためにカウンセリングが無料だった(私の保険では10月まで)。とても助かった。無料ならばと通えた人はたくさんいただろう。行政からの支援金があったのかなどはもう少し調べないと分からないが、メンタルヘルスを重要視する姿勢がよく分かる対応だったと思う。

 

私はカウンセリングを良いものだと思っている。鬱など具体的な病気になっていなくても、有意義なものだ。自分の思考の癖が解けたり、今持っている悩みの糸口が見えたり、引きずっている過去の記憶との付き合い方も変えることができる。私はそのように使っているが、他の効果もあるだろう。

 

中学生時代、初めてスクールカウンセラー制度ができた。全校100人にも満たない私の中学にもひとりのカウンセラーが赴任してきた。資料室が週一度カウンセリングルームになり、何度か行った。担任に呼び出され「カウンセリングに行くのは逃げなんじゃないか」と言われた。憤った当時の気持ちを今も覚えている。

日本社会はどのくらい変わっただろうか。もっとメンタルヘルスケアが多くの人にとって身近になるといいなと思う。

 

(951文字/60分29日目)

時代の先端・当たり前が変化するところ

森元首相の差別発言が大ニュースだ。今回に限らず幾度も森氏に気分を害され、本当に嫌だ。辞めてほしい。時代遅れが過ぎる。もしくは、世間ずれが過ぎる。

日本のニュースの最初の報道が弱気だったのも本当に嫌。例えば毎日新聞は、「女性蔑視とも受け止められる発言で波紋を広げそうだ。」という文言だった(以下にリンク)。こういう「受け手によっては深刻さが変わりますよ」という書き様は、本ニュース以外でも散見されるけれど、自分たちのマスメディアとしてのスタンスを表さない卑怯な書き方だと思っている。マスメディアとしての気負いの無さに見える。

第一報ののち、フランスAFPや米国ニューヨーク・タイムズなどの報道が「差別発言をした」と明確に立場性を示しつつニュースを打ち出した。それで安心したかのように国内報道は「森氏の退任もありえる」という厳しめの論調にしたのはが情けない。

日本、ジェンダー・ギャップ指数世界121位はダテじゃない。同指数の政治分野では前年から19位も落として144位ですよ。ちなみに153カ国中の順位です。ほぼドベじゃん。

 

と久々のお怒りモード。

 

その一方で、ジェンダーセクシャリティ関連ですてきな小説にも出会いました。

『夜の向こうの蛹たち』(近藤史恵祥伝社/2020年)

女の生き様、分かりあえなさ、強さなどが描かれている。

主人公がレズビアンなのだけれど、「LGBTだからこその~」とか「同性愛ならではの~」みたいな差別的な特別視がなく、何の断りもなくさらりと描かれているのが非常に好感を持てる。気になる相手のセクシャリティをさり気なく探る描写や、ヘテロだったら諦めようというくだりは、「あるある!」という気持ちになった。

性差別当事者よりもアライの人にオススメしたい。

続きが気になる展開で、私は起き抜けの朝食前に一気読みしました。

 

さて、このふたつの卑近な出来事をどうまとめるか。

惜しくも亡くなってしまった(マジで惜しい!!)デヴィッド・グレーバーが述べるように、社会はいつでも草の根の市民から変わっていくものだというのは私も多いに同意する。昨今は、一部イシューに限られるが、差別への眼差しが市民レベルでは劇的に変化しているように感じている。少しずつだが、人々の視界は押し広げられ、解像度も上がってきている。

差別構造の文脈ではないが、差別においても同じことが起きていると思うので、以下にグレーバーを引用する。

 

ヨーロッパにおいて、のちに福祉国家となる主要な制度-社会保険や年金から公共図書館や公共医療までのすべて-のほとんどが、その期限をたどれば、政府ではまったくなヨーロッパにおいて、のちに福祉国家となる主要な制度―社会保険や年金から公共図書館や公共医療までのすべて―のほとんどが、その期限をたどれば、政府ではまったくなく、労働組合、近隣アソシエーション、協同組合、労働者階級政党、あれこれの組織にいたりつく。これらの多くが、「古い外皮のうちに新しい社会を建設する」すなわち、下から社会主義的諸制度を徐々に形成していくという自覚的な革命的プロジェクトに関与するものであった。

 

(『官僚制のユートピア―テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』デヴィッド・グレーバー・著、酒井隆史・訳、以文社、2017年)

 

 私(たち)の怒りは貴い。世界を変革するその先端そのものである。

  

(1363文字/50分/28日目)

 

夜の向こうの蛹たち

夜の向こうの蛹たち

 

 

 

 

 

mainichi.jp

容量と余裕

私の本棚の一角には、「進行中」の棚がある。

最近発見した整理方法で、同時並行で複数の作業をしたり、ひとつの事柄を多角的に考えたりするのに便利だ。

読んでいる途中の本、今使っている複数のノート、メモ帳、頭の中で考えている事柄に関連する本をまとめて「進行中ゾーン」に保管する。そこから必要な物だけを出してきて作業して、作業が終わればその都度しまうことにしている。

以前は、こういった本やノート、資料類を全て机の上に広げっぱなしにして日々仕事していた。しまわないのだ。確かに全て関連しているのだけれど、全てが目についてしまい、作業的にも内容的にも優先順位が決められず、散漫になりがちだった。ひとつの作業をしていても、机の上のものが目に入ることで、思考が散漫になりやすいようだった。

ここのところずっと棚の中がギチギチに詰まっていたので、今日その棚を整理した。優先順位をつけていくつかの本を元の位置に戻したり、使っていないノートをほかの棚に移したりした。頭もスッキリしたし、棚に余裕ができた。

 

ひとつやると調子づくので、銀行口座の確認や、家計簿アプリの確認などをした。

この調子で、整理作業を進めたいなと思っている。

 

・個人書類の電子化

・作品資料の整理と電子化

・PCフォルダの整理

・デスクキャビネットの整理

 

こんなところかな。

とこんな感じでタスクを書き出すと頭がスッキリして、他のことを考える余剰ができる。

 

身体器官をモノに例える言い回しはたくさんあるけれども、こういう時に、その例えの身体性を実感する。この場合は、脳の記憶や容量を棚(引き出し)に例えるやつですね。

 

(669文字/20分/27日目)

 

 

私のニューヨーク・リアリティ

ニューヨークに来てからの時間が積み重なっている。

自分が住んでいない地域、即ちミッドタウンやイーストヴィレッジ、ソーホー、ブルックリンやブロンクスの方へは、数えるほどしか行っていない。クイーンズもほぼ未踏の地だ。自分の居住エリアから離れた回数を数えれば、きっと両手両足の指で足りてしまう。行ってみたい場所、店、コミュニティ、美術館や博物館などは渡米当初に思っていたものと変化がない。初めに行きたいなと思っていた場所にまだ存分に行っていないから発想が広がっていない気がする。あと、芋づる式が好きに場所やコミュニティを訪ねるのが好きなので、ずっと芋づるの端っこを持っている感じだ。

 

この1年、東京やその他日本の友人からニューヨークについて聞かれるたび、言われのない引け目を感じていた。体験や経験、交流を大切に思っていて、そこから得られる感覚や知識を大切だと思っているから、外出の少なさから「経験してない私は何もしらない」という思いになっていた。

そんなこと思わなくたっていいのに、パンデミック以前に思い描いていたよりも経験量を得られなかったため、私はニューヨークを全然知らない引きこもり野郎だと自分に情けないレッテルを無意識に貼っていた。

 

とはいえ納得していたわけではない。腑に落ちない思いを抱え続けていたら、ふと自分の経験をフラットに見る視点に出会えた。

私のニューヨークに関するリアリティは、出歩くことのできなかった、即ち、お互いの命を守ることを優先させ続けた実践である。私は私のニューヨークを知っているし、知らないニューヨークもたくさんあるというのが事実に近い認識だと思う。何も知らないというのは誤認だ。

 

東京に住んでいたときのような気持ちだ。

私の好きな東京がある。知っていることと、数え切れない知らないこと。訪れたことのない場所も当然ある。何度も飽きずに足繁く通っている場所もある。数度しか行ったことがなくても愛着がある場所もある。

 

ニューヨークも好きな場所がある。知っていることもあるし、知らないことも数え切れないほどある。街角の名もなき風景まで愛するのが私の街との付き合い方だ。ニューヨークが自分のいる場所のひとつになってきている。これから足繁く通うような場所やコミュニティが作れるといいなと将来のことを思い描いている。元気な私はその日が早く訪れるように、引き続き外出控えめの暮らしを続けようと思う。

 

(997文字/30分/26日目)

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ジェリードーナツ食べました。