時代の先端・当たり前が変化するところ

森元首相の差別発言が大ニュースだ。今回に限らず幾度も森氏に気分を害され、本当に嫌だ。辞めてほしい。時代遅れが過ぎる。もしくは、世間ずれが過ぎる。

日本のニュースの最初の報道が弱気だったのも本当に嫌。例えば毎日新聞は、「女性蔑視とも受け止められる発言で波紋を広げそうだ。」という文言だった(以下にリンク)。こういう「受け手によっては深刻さが変わりますよ」という書き様は、本ニュース以外でも散見されるけれど、自分たちのマスメディアとしてのスタンスを表さない卑怯な書き方だと思っている。マスメディアとしての気負いの無さに見える。

第一報ののち、フランスAFPや米国ニューヨーク・タイムズなどの報道が「差別発言をした」と明確に立場性を示しつつニュースを打ち出した。それで安心したかのように国内報道は「森氏の退任もありえる」という厳しめの論調にしたのはが情けない。

日本、ジェンダー・ギャップ指数世界121位はダテじゃない。同指数の政治分野では前年から19位も落として144位ですよ。ちなみに153カ国中の順位です。ほぼドベじゃん。

 

と久々のお怒りモード。

 

その一方で、ジェンダーセクシャリティ関連ですてきな小説にも出会いました。

『夜の向こうの蛹たち』(近藤史恵祥伝社/2020年)

女の生き様、分かりあえなさ、強さなどが描かれている。

主人公がレズビアンなのだけれど、「LGBTだからこその~」とか「同性愛ならではの~」みたいな差別的な特別視がなく、何の断りもなくさらりと描かれているのが非常に好感を持てる。気になる相手のセクシャリティをさり気なく探る描写や、ヘテロだったら諦めようというくだりは、「あるある!」という気持ちになった。

性差別当事者よりもアライの人にオススメしたい。

続きが気になる展開で、私は起き抜けの朝食前に一気読みしました。

 

さて、このふたつの卑近な出来事をどうまとめるか。

惜しくも亡くなってしまった(マジで惜しい!!)デヴィッド・グレーバーが述べるように、社会はいつでも草の根の市民から変わっていくものだというのは私も多いに同意する。昨今は、一部イシューに限られるが、差別への眼差しが市民レベルでは劇的に変化しているように感じている。少しずつだが、人々の視界は押し広げられ、解像度も上がってきている。

差別構造の文脈ではないが、差別においても同じことが起きていると思うので、以下にグレーバーを引用する。

 

ヨーロッパにおいて、のちに福祉国家となる主要な制度-社会保険や年金から公共図書館や公共医療までのすべて-のほとんどが、その期限をたどれば、政府ではまったくなヨーロッパにおいて、のちに福祉国家となる主要な制度―社会保険や年金から公共図書館や公共医療までのすべて―のほとんどが、その期限をたどれば、政府ではまったくなく、労働組合、近隣アソシエーション、協同組合、労働者階級政党、あれこれの組織にいたりつく。これらの多くが、「古い外皮のうちに新しい社会を建設する」すなわち、下から社会主義的諸制度を徐々に形成していくという自覚的な革命的プロジェクトに関与するものであった。

 

(『官僚制のユートピア―テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』デヴィッド・グレーバー・著、酒井隆史・訳、以文社、2017年)

 

 私(たち)の怒りは貴い。世界を変革するその先端そのものである。

  

(1363文字/50分/28日目)

 

夜の向こうの蛹たち

夜の向こうの蛹たち

 

 

 

 

 

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