結婚証明の取得と苗字の話(1)
2020年1月21日、ニューヨーク市市役所(NY city clerk's office)に結婚証明の申請に行ってきた。
予め、予約を取って、パートナーとひとりひとつ身分証明書を持って。念のためボールペンを持つ。書きにくそうなボールペンで署名するのがなんとなく嫌だから。
外は、マイナス6度C。風があったら体感温度はマイナス10度Cくらいに下がる。お洒落なんてする余裕なく、ともかく暖かく着ることが至上命題。
1週間ぶりに地下鉄でダウンタウンへ。
街並みや建物や地下鉄の古いモザイクがとても綺麗で写真に納めたいのだが、寒すぎてケータイを出す気にならない。
ちょっと緊張している。落ち着かない気持ちもある。
古く美しいホールに、警察による空港のようなセキュリティチェックを受け、受付番号を取る。順番にカウンターに呼ばれる。カウンターの横には名刺を渡そうとするカメラマンたち。そうか、今日の記録をプロに頼みたい人がいるのか。
落ち着いた雰囲気の天井の高い美しいホール。花束や飾りを売る売店やフォトブースがあり、美しく着飾った人たちがいる。本人たちだけでなくて、小さな結婚式のように友人や家族と思しき人に囲まれた人たち。特別な雰囲気の民族衣装を身につけた人。
そこで私は、「ああ、これはとてもとても特別な行為なんだな」とようやく気づく。
ちょっとおかしかったのは、フォトブースの近くでカウンターにもたれかかって、「証人いる?自分がなるよ。これまでたくさんのカップルの証人になってきたんだ」と言っているおじさんがいたことだ。胡散臭くて良い。そういう小商いなのか、役所のスタッフなのか、売店のおじさんなのか、趣味なのか、全く分からない。ちなみに、結婚証明を取るには、一人の証人の同行が必要。
米国全土は同性婚が認められている。2015年、サンフランシスコの市役所に行った時は、何組かの同性カップルの結婚セレモニーを見た。見回すと、一見、シスカップルばかりだが、本人たちの自認は分からないのだなと思って安心した。
結婚証明を取るのは2日必要。1日目は申請。結婚する二人が揃っていることとそれぞれの身分証明が必要。翌日、24時間以後に再度役所を本人たちと証人と共に訪れ、小さなセレモニーをする。これにて完了。
今日はその初日。
受付番号が呼ばれるのを少し待った。2時間待つこともあるとネットで読んだが、トイレに行っていたらすぐだった。トータル15分くらいで順番がきた。カウンターで、本人確認、婚歴の確認、母親の旧姓確認、結婚後苗字の選択、用紙への手書きサイン、手続き料35ドルのクレジット支払い、以上終了。拍子抜けするほどに早い。ちょっと緊張して、母親の旧姓をアルファベットで言い伝えるのを間違えてしまった。
w-a-t-a-n-a-b-e 。
初日の部、以上終了。
横長の受付ホールは一方通行になっており、入った扉と反対から出た。
天気が良い。役所の外には、薔薇の花束を売る屋台やカメラマンがいた。
これに伴って、苗字の話がしたい。時系列が戻るが、この申請の2日前の話。
私(とパートナー)が今日のために、苗字を選ばないといけないと知ったのは、日曜日の夜。初日の申請が火曜日だったから、たった2日前。友人と近所のバーでビールを飲んでいる時に、その友人が教えてくれたのだ。しかも、月曜に申請に行こうと思っていたが、キング牧師の日という祝日で役所が休みだったので、考える時間が1日、たまたまできたというだけだ。月曜が役所が休みのようだというのもその会話の中で知った。
大事なことは、細心の注意を払って調べあげ、todoリストを作り、確実に抜かりなく準備するのが私の好みなのだが、法的結婚に関心がなさすぎて、下調べや準備を全くしていないという感じの私が良く現れているなと思った。
私もパートナーもふたりとも苗字を変えるということが頭になかった。夫婦別姓ができない国で生きてきた私は、突然目の前に選択肢が開かれて驚いたし、話しあって来なかったのでちょっと焦った。
飲み会から帰って、慌てて検索したりしたけれど、なんだか付け焼き刃の知識は良くないなと思ってすぐやめた。今ある知識や知恵と感覚で考えようと思った。
米国は夫婦別姓が認められている国なので、選択肢は、
・夫婦別姓(結婚する前の苗字を二人ともそのまま使う)
・どちらかの苗字に合わせる
・ダブルネームにする(自分とパートナーの苗字を並べる。順番も選べる)
・ハイフンで苗字をつないで新しい苗字をつくる(例えば、私がGonda、パートナーはRogers(ロジャース)なので、Gonda-Rogersとか、Rogers-Gondaとか)
・互いの苗字に関係ない全く新しい苗字を選ぶ(例えば、私は「真田(Sanada)」という苗字がカッコいいと思うのだけど、GondaをやめてSanadaで申請することもできる)
多分まだ選択肢もあるんだと思うけど。知ってるぶんだけ書いただけのリストだ。
翌月曜。何度かに分けてパートナーと話す。
結論としては、苗字は変えない。以上。
絶対無い選択肢は、私がパートナーの苗字になることだった。女が男の家に嫁に行く、という形を取りたくなかった。そして、私は自分の苗字は割と気に入っているので、ここで捨ててしまうのはありえないことだった。
逆に、パートナーが私の苗字になることもありえなかった。自分の苗字は好きだが、自分の家のメンバーシップに引き入れるようで居心地が悪いし、気持ち悪い感じがした。全く喜べない。
ダブルネーム、これはありえる選択肢だった。互いの苗字を並べるのだ。多くの国際カップルがやっているのではないのだろうか。互いのルーツを尊重できるように感じるし、スペイン語圏では、これが当たり前の国もある(ただし、父方の苗字を取るというのも聞いたことがある)。
ハイフンで苗字をつないで新しい苗字をつくる。これもありえる選択肢だった。特にパートナーは、やるならばGonda-Rogersが良いと言っていた。ただ、実際使うとなると長いし、将来仕事で不便だなという話になった。発音しにくいし。
互いの苗字に関係ない全く新しい苗字を選ぶ。ありえなくないけど、あと1日で考えるのもなあ、と思ったのでやめた。ある苗字の中から新しいものを選んだところで、そのルーツを辿ったりすれば嫌な部分に出会うだろうし、完璧なものはないからだろうから。宇宙語でも知っていたら良かったのに。私は、赤ちゃんの時に、日本語以外の言語を話していた記憶があるので、その言葉から選ぶのもあるかなあと思ったけれど、その言葉のほとんどを忘れてしまったし、覚えている言葉も、あまり心地良いものじゃない。存在するかも分からない宇宙言の苗字、良いな。でも言語体系が想像の範囲外ってこともあるしな。映画、「メッセージ」みたいに(好き)。でも良いアイデアだな。
正式な登録と、日常で使う通称を別のものにするという手もある。けれど、システムを助長すること、システムに加担することをできるだけしたくない。どうすれば良いんだ。
どの方法を選んでも、今の互いの苗字から変えるのであれば、パスポート、銀行口座名義、国際免許、これからのビザなどなど、全ての手続きがより煩雑になる。すごく面倒だ。すごく面倒。
だんだん、考えているうちに、「なんでこんなこと考えないといけないんだ」という気持ちになった。この時間こそ、システムに絡めとられていて、腹立たしいし、なんで頑張って抵抗しなきゃならんのだと思った。
なんらかの変更を伴う形を選ぶのであれば、それがシステムを容認しない姿勢を表す方法であったとしても、煩雑な手続きを生む。性別や結婚や家や、国家による個人の管理に巻き込まれてしまうのだ。
だから、シンプルに、
苗字はお互い今のまま。
決めたら、清々しくて、
以上。
終了。
お疲れ様でした!
という気分だった。
苗字が選べるのは良いことだ。
日本の国会ではまた、選択的夫婦別姓を取り扱うの発言の中で、ヤジが飛んだというじゃないか。「じゃあ結婚するな!」とかなんとか。苗字を選べないことは、1985年に日本も批准している国連の「女性差別撤廃条約」に違反しており、日本は何度も国連から勧告を受けている。夫婦別姓を認めていない国は、世界でも日本だけ。人権後進国と言えるだろう。夫婦別姓問題に反対する人たちは理由として「家族の絆が壊れる」と言うけれど、本当にそうだろうか。日本以外の夫婦別姓を認めている全世界には家族の絆は無いのだろうか。
苗字ひとつで人間は変わらないし、苗字は愛を存命させたり延命させてくれない。家族や愛を延命させるのは終わることのない丁寧な関係性の構築(対話や傾聴)だと思う。
昔、326(ミツルと読みます。懐かしいね)という詩人の作品の中に「ふたつめの名前であなたと同じ道」(で私とても幸せ!!)というものがあり、十代だった当時その意味が全く分からなかった。婚姻制度が分かっていなかった当時も、多少理解した今も私は、この作品と同じ幸せは分からない。同時に、夫婦同性の幸せを自分の幸せだと思っている人のことは想像できる。そして否定しない。
ノーベル平和賞を受賞したアマルティア・セン(グラミン銀行などで貧困問題解決に取り組む)は、「貧困とは、選択肢が無いこと」であると言っています。逆から言えば、豊かさとは、選択肢があること。この発言は、貧困とは何なのかについて発せられたものですが、社会の豊かさを考察する時にも使えると思っています。
今回私は、結婚に関する苗字変更という状況でしたけれど、それ以外でもどんな苗字も、いつでも、どこでも、誰でも選べる。理由は問われない。
寛容な社会こそが豊かさなのではないかと考えています。