結婚指輪の話

ニューヨークに引っ越しました。2020年1月14日付け。

これからも楽しく生きていくため。パートナーと暮らすため。引っ越しました。先週から移民です。

いろんなことがありますが、今日はちょっと指輪の話を書いておきたい。

 

ニューヨークに着いた当日、パートナーは私にいくつかのサプライズプレゼントを用意していてくれた。出発直前に電話で「サプライズを4つ用意したよ!」と言っていたので、とても楽しみにしていた。

 

ひとつ目は、お花。

部屋に入ると、白いダリアと百合を中心にまとめられて、グリーンが周りを彩る。大きな花束がでかいジャーに挿してあった。白とグリーンのアーバンな組み合わせはとても好き。お洒落。私の好みを考えてくれたのだと分かる。多分、パートナーは知らなかったと思うが、百合は私の一番好きな花で、大振りのダリアもかなり好きな花だ。

 

プレゼントを贈ることは、贈る方も選ぶ時間という愛の時間を持つことができる。愛する他者を感じ考えることができ、かつ愛をダイレクトに表現できるとても素敵な経験だと思う。

 

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ニューヨークの部屋。

 

ふたつ目は、シャワーヘッド。

シャワーヘッドが固定された不便なものだったので、ホース付きを買っておいてくれた。快適。生活の快適さは、大事。ちゃんと足とかお尻とか洗えます。シャワーヘッドを固定する場所が高過ぎて私の手が届かないと分かり、ふたつめのホルダーを買い増した。

 

みっつ目は、キッチン用折り畳みスツール(踏み台)。

新宿のCafe Lavanderiaのイベント時に出てくるあの小さい椅子。私がキッチンの高い棚に手が全く届かないので、用意しておいてくれた。アメリカサイズというか、ちょっとキッチンが大きいのだ。高い棚が届かないのは日本も同じなんだけど。

 

よっつ目は、指輪。

様々な色の宝石が並んだデザイン。とてもすてきで、服飾品にお金をあまりかけない私たちからすると、奮発したんだなあということが伝わってきた。

可愛くて、嬉しかった。サイズが合っていないことを笑い合った。同時に戸惑った。他の3つのように心から喜べなかった。パートナーから指輪をもらうとは予期しておらず、本当に、パートナー自身はこれでいいのか?という疑問が心のそこにあった。以前、指輪や結婚式には抵抗があることを何度か話し合っていたからだ。

私も、バージンロードを歩くこと(自分の所有者が父から配偶者に変わることの象徴)や、指輪をすることで「恋人がいるんです」と表現する感覚などに違和感があった。

 

指輪を渡された時パートナーは、「結婚の習慣ではダイヤモンドだろうけど、クイアなレインボーカラーにした」「デザインが好きじゃなかったら、選び直そう」「右でも左でも薬指にしなくてもいい。それは伝統的な習慣だから」「ナミが幸せなら私も幸せ」と繰り返した。

 

到着当日は、渡航前からの寝不足、羽田ーニューヨーク直行便12時間のフライト疲れなどで、指がむくんでいて、もらった指輪は、すぐに丁寧に外した。

 

翌朝、朝一番で指輪を取り出して、「どの指にはまるかな〜」と思いながら、どの指もきついか緩いかだったので、結局右手の薬指につけた。

パートナーと一緒に、コーヒーとシリアル2種類、ブルーベリー、アーモンドミルクの朝食を用意して、リビングのソファで食べる。

食べたあと、今日どうするか、生活を整えるのに何をする必要があるのかといった話から、指輪の話になった。

初めは、指輪のサイズを実店舗に行って交換しようという話から、本当に私がデザインを気に入ってくれているのかどうか、デザインも気に入らなければ変えていい、という話など。いやに「ナミが幸せなら私も幸せ」と繰り返すなあと思いながら話を進めていくと、

本当は、指輪はどっちでもいいということ、地元で両親や親友と話すうちに、その伝統や愛情表現方法の重力に引っ張られて、指輪を買ったこと、せめてもの思いでたくさんの種類の宝石が並んだクイアなレインボーカラーのデザインにしたこと、そんなことがパートナーから話された。

私は、指輪や結婚式などへの憧れもあるけれど、でもそれは本当に自分が自分として嬉しいというよりも、親を喜ばせたい(そのために自分は自分の心を殺したり、お財布を開いたりしてちょっと無理してもいいかな)、綺麗なドレスを着てみたい(非日常的に美しく着飾りたいコスプレ的欲求)、指輪という高価なものが欲しい(80年代生まれ的な物欲やブランドへの憧れ)、という愛とは関係ない欲求からくるものだった。それは今でも変わらない。

それと同時に、私は、女性がイエの所有物・財産として扱われる家父長制や、戸籍に本当に嫌気がさしていた。それは自分を不幸、不自由にするものだと思っている。

私とパートナーは、クイアカップルではあるが、見た目や制度上は男女カップルなので、伝統に乗っかることもできる。だからこそなのか、困ってしまう時がある。「結婚式はいつ?」「ハーフの子どもは可愛いだろうね」など無意識の言葉たちによって。

これら無意識の言葉たちを責めたいのではない。無意識は社会が作り出すものだ。互いの違和感があるときに、本当の気持ちを伝えられる間柄を構築したい。そのための時間をつくる人生でありたい。丁寧に、丁寧に。

 

話が少しそれたので、戻す。

パートナーと話し合っていくうちに、お互いの気持ちが明確になった。

結婚制度を象徴するような指輪はいらないということを確認し合った。

指輪を選んでくれたことや、指輪のデザインそのものはとても好きだということを伝え、その愛を受け止めた。感謝していて、とても喜んでいることを伝えた。

 

私は、モノガミーとそのカップルを否定しない。

伝統的家族を営んでいる人たちも否定しない。

以前の私だったら否定的な感情も強かったが、それらの仕組みのなかで、幸せに生きる人々を多く目の当たりにし、ある人々にとっては、それらは悪いものではないのだと分かったからだ。人にとって良いものが自分にとってもそうであるとは限らない、それだけのことだ。

しかし、それらを肯定することが、他者や、他の選択肢や考えを否定するものである時は、全力でそれと闘いたいと思う。聞き、話し、理解し合おうとする方法で。

 

パートナーの父親は牧師さんで、パートナーはキリスト教の色濃い家庭や環境、地域で育った。両親からの結婚式の勧め受け答えるパートナーの言葉に助けられた。「それはお父さんたちの伝統。私たちの伝統は私たちでつくるから」と伝えているようだ。自分の主張をし、理解を求めることが理由であっても相手を否定しない姿勢とコミュニケーションを素晴らしいと思う。

 

宗教や伝統や習慣を踏襲しないことは、それを大事に思う相手を否定することではない。私(たち)は、私たちの伝統をつくるだけ。そして、世界にはそれが並立するだけなのだ。対立は、本来、ないはずだ。

そこに対立を見出すのが人間なのだと思う。ただ、そこに「在る」ものに対して、優劣や価値を見出す。大抵は、自分を守るために。地面に生える草にだって価値の有無があり、価値のないものを殺すことを厭わない思考を持つのだから。

その雑草、抜かなくたっていいじゃん。

今流行りのダイバーシティの話にもなるんだろうけど、多様性ってのは認め合って、ほっとき合うっていうのは大事だと思う。

 

伝統や習慣、婚姻制度、家父長制の重力は強い。

いつでも私を、憧憬や幼い憧れなどによって、そこに引き戻そうとする。

これこそが、お前の幸せなのだよ、と。

伝統に従い、男に従い、大人しくしていることが、お前の幸せなのだよ、と。

しかし、私の自由な心は知っている。私はそれでは幸せになれないと。

私は、それを「我慢」だと感じてしまうということを。

 

だから、私(たち)は結婚指輪を返送する。返金ももらう。そのお金でまた何か他のことをする。そう、決めました。

 

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いつでも花は美しい。えも言われぬ華やかな気持ちになる。