今、生きててよかったなと思えることのひとつは、
自分の中で、できるだけ一番ピュアな質問を自分に問い続けることができる。そしてそれを実行に移す未来を描くことができる。
ということです。
自分自身に何がしたいかなと問いかける。
「また大学に行き、専門的に学びたい」
「ヨガやピラティスの講師資格を取るのもいいな。英語環境下でとって、ついでに関連の英語も話せるようになろう」
「政治にもっと違う方法で関わりたい」
「暮らす体は自分で癒せるんだよ、ってみんなに伝えたい」
「どこかの劇団に属したりして、人の間で技術を磨きたい」
「もっと体のことを知りたい」
「自分の過去のことを知りたい」
私は今をどう過ごしたいかな、と問いかける。
「青空が綺麗だからそれだけでいいや〜」
「本を読もう」
「いや洗濯物が先かな」
「日記を書こう」
「絵を描こう」
将来はどうやって暮らしたいかなあ、とふと思う。
「平家に住んで」
「犬や鶏や豚も一緒に暮らして」
「友達も住んだり、訪ねてきたり、泊まっていったりして」
「朝ごはんと夜ごはんも大切にして」
「パズルなんかもして」
「散歩やジョギングもして」
「旅もして」
「日本に住んでなくてもいいし」
こういう自由な問いと答えを自分に対してできるのは、今までの職歴をかなぐり捨てたような生活をしているからだろうし、踊りを中心とした自分に嘘やごまかしの少ない選択肢をしているから、思考が自由になってきたというのは大きいなと思います。
随分と頭が自由になったものだと思う。
ここに至るまでは、親の育て方の影響でこんな思考回路や強迫観念もありました。
例えば、
・何かやり始めたら、どんなことがあっても辞めるのは恥。物事を辞めるのは人間失格(辞めてはいけない、逃げてはいけない)
・親に認められる生き方しかしてはいけないし、それ以外の選択肢はない。
・正社員で安定した収入がなければならない(そうでないと親に怒られる)
・何か新しいことをするには、親が理解できかつ価値を置ける壮大なストーリーや理由が、彼らの説得に必要。(何から何まで理由が必要。思いつきや、心の中の閃きは意味が無いと判断される。理屈っぽくなりました笑)
・日常生活が幸せではないのが当たり前、幸せは遠い未来にある(めっちゃ矛盾してる。死ぬまで幸せになれない)
・世の中には価値がない物や人がある(「そしてそれは私」が加わる)
・お金さえあれば安心(人間的な繋がりは役に立たない)
・人に使われる人間は無価値、人の上に立たなければならない(と言いながら、「正社員でなければならない」と言われる矛盾)
・私には何もできない、価値もない。
・お風呂は夜に入らなければならず、朝のシャワーは以ての外。恥ずかしい行為。
・外食や中食は恥ずかしいこと。お金の無駄。
今もこういった類の強迫観念が浮かび上がってくることはありますが、随分減りました。思考の癖も変わり、随分、自分を大切にした選択ができるようになってきました。
親が、「こうやって生きたら幸せになる」と示し、強制した生き方は、私にはあまり必要のないものでした。
そしてこういう極端な考え方をする両親に対しても、何らかの相当の被害者なのだと思えるにも至りました。事実、専門書にも暴力やDVは連鎖するので、やってしまう人も被害を受けて育っていると書いてあるのですが、それを「そうだよなあ」と事実として受け止められるようになったというか。
思えば、「幸せ」という概念や実感も私にとってはここ1年ほどの新しいもので、ようやく分かるようになったものです。それまでは、「楽しい!」「テンションが上がる!」などはありましたし、自分の仕事が認められて「これは幸せなことなのだ」という感覚はありましたが、みぞおちのへんから立ち昇るような「幸せだなあ〜」という暖かい気持ちは感じたことがありませんでした。無かったんですよ。本当に。
書いてて、信じられないようなウソくさいような感じになっちゃうかな〜と思うけど、本当だから仕方ない。
私は、死ぬまで、少しずつ、賢くなりたい。それは知識がたくさん欲しいということではない。人間の叡智的な意味で、賢くなって行きたい。知らないことを知って、感じ、考えることを続けたいわけです。知らないからこそ、分からないからこそ、関わる誰かを否定したり、彼らのことを否認したりしたくないと思うのです。
こんなことを考えられるだけで、随分遠くに来たなあという思いです。2019年も春がきましたね。