気流舎オンライン読書会、~新しい体験との出会い

5月30日(土)、NY時間、午前7時20分頃から、日本のZOOMイベントに参加した。

朝早い。

早いんだけど、日本時間は夜7時~9時のイベント。

至って普通の時間。時差を感じる。

 

参加したイベントは、

『気流の鳴る音』オンライン読書会

 

note.com

 

東京・下北沢にある気流舎という素敵なブックカフェ主催のイベント。

気流舎は、とても好きな場所。今は、コロナ対策で閉まっている。

私もノンネイティブ英語講座のというイベントの共催でもお世話になったりした。

この読書会、どんなイベントか、ちょっと引用すると、

 

各自好きな本・好きな場所を読む図書館スタイルのオンライン読書会です。

「気流の鳴る音」が手元になければ他の本でもオーケー。

最初の1時間

輪読ではなくて、黙読で各自、好きに読むスタイル。

後半の1時間は

感想言い合ったり、雑談になってもあり、みたいなイメージです。

 

さらに、当日、読んだ箇所や話題に出た本など記録していこうと思います。

 

 

と、いうことだそうです。

「朝、早すぎる!」と思っていたのですが、先週の朝6時から、パリテ・アカデミーのイベントに出席したので、吹っ切れました。朝早く動くの、良い。好き。起きるまでがちょっと大変なだけ。

 

パリテ・アカデミーはちなみにこちらです。

一般社団法人パリテ・アカデミー | Academy for Gender Parity

 

私はちょっぴり寝坊して、7時20分頃お邪魔。

既に、主催のホリム・ベイさんともうひとかたが静かに読んでいらして。「こんばんは」と、軽く挨拶。画面の中の日本の夜の光と、NYの朝の光が、ちょっぴりワクワクさせる。私たち、違う場所にいるんだな。

再会と初対面に、興奮しておしゃべりしたくなるが、自分の読む本のタイトルを伝え、ホリベさんに促されるように読書開始。すぐに、チャット欄に本の名前が書き込まれる。他の人が読んでる本のタイトルも見えるようにしてくれてて親切。

 

私は、あと30ページほどが読めずにいた『ナウシカ考 風の谷の黙示録』(赤坂憲雄/著、岩波書店、2019年)を読んだ。

植物をたくさん置いた窓を少しだけあけ、窓の真横にあるゆったりとくつろげる深くて低いアームチェアに座る。

朝日が差し込み、植物の葉に光が透けて美しい。

そよそよと優しく朝の風が吹き込む。爽やかで高原のような涼しい風が皮膚にあたる。

幸せな気持ち。

この朝の風と光を、読書とともに体験できただけでも、私にとって大きな価値だ。

開始直後、既に、イベント主催者と気流舎にめっちゃ感謝してた。

 

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この椅子で読みます。

 

どんな本を読んでもいいイベントなのだが、そのタイトルにあるように、『気流の鳴る音 交響するコミューン』(真木悠介/著、筑摩書房、2003年)を読みたかった。

過去、何度か読んでいるが、読むたびに発見があり、優しさと強さと知恵をもらえる。

だが、悲しいことに、日本からNYに送った荷物のうちひとつが未着で、多分十中八九もう既にバミューダ海峡に消えていて、手元に無い。

そんなわけもあって、手元に『気流の鳴る音』はない。ついでに言うと、大事な本やZINEがたくさん入っていた荷物だった。悲しみ。ひとまずこの悲しみは置いておく。

黙々と、『ナウシカ考』を読んだ。

漫画版『風の谷のナウシカ」』終巻のごとく、ドンドンと物語が突き進み、読みたいけど自分の頭と感受性は置いてけぼりにされる感覚が、『ナウシカ考』の最終章にもあり、ひとりではなぜか受け入れがたく、突然突き放されたようにわからなくなってしまい、読めていなかった。最終章までは物凄いスピードで読んでいたのが嘘みたいに止まっていた。

改めて空間と時間に助けられながら読んでみると、『ナウシカ考』の最終章は優しく、明るく世界への新しい扉を開けてもらった感覚で、手をとっていざなってくれ、私を置いてけぼりにはしなかった。思ったよりも大きな世界へ導かれるのが漫画版『風の谷のナウシカ』と似ていた。

 

この読書会の後半では、本の一部を読み上げ共有する。それが影響してか、本の内容も相まって、今までしたことない接し方、読み方で本を読んでいた。初めての感覚だった。

少し詳らかにしてみると、こんな感じ。

本に埋没することなく、自分の思考と感情に埋没することなく、距離を保って読めた。こんなふうに本が読めるのは初めてで、本の内容がいつもより客観的に、私自身と距離を持って入ってくる。

美しい読書体験だった。

(今思えば鬱の)出来損ない学生だった大学院時代を思い出し、こんなふうに文献と向き合えたらよかったのになあと思うとともに、将来を思い、こんなふうに文献と向き合えたら、論文は書きやすいのか、という発見をした。

 

会を通して、ぽつぽつと参加者も増えていった。

人が増えるたびに簡単な挨拶をした後は、また静かな読書空間ができあがる。

パートナーがいつの間にか起床し、コーヒーを淹れて持ってきてくれた。インデペンデントな焙煎屋から買っている煎りたてのコーヒー。私の時間は朝であることを、画面の中の夜の日本を見て再び味わった。

 

今まで読めなくなっていたのが嘘のように、最終ページまですすすと読めたので、自分がドッグイヤーを付けた箇所を読み返した。この本にはそれがふさわしいような気がして、鉛筆で線を引いた。ボールペンもハイライターも強すぎる。

 

あっと言う間に、前半が終わった。もう少し読んでいたいくらいだ。

一人ずつ、本の一部を朗読する。

その人が、選んだ箇所。知らない言葉たち。

画面のなかの日本の夜の光が優しい。

目を閉じて聞くと、文章がよく見える。クリアになって入ってくる。

全員が、目で追って文字で読むことを前提に書かれた本を読んでいたために、音読だけで全てを理解するのは困難だったが、人の語りのなかで形作られ、響きとなって入ってくる頼りない文章は違う味わいがあった。

上記2冊の他には、

 

『カルロス・カスタネダ

『森の生活』

『限界芸術論』

 

などが読まれた。

 

限界芸術論 (ちくま学芸文庫)

限界芸術論 (ちくま学芸文庫)

  • 作者:鶴見 俊輔
  • 発売日: 1999/11/01
  • メディア: 文庫
 

 

 

私の『ナウシカ考』も含め、どれも人間や生き物の暮らしや生や命に関わる本ばかりで、申し合わせたわけではないのに不思議と立ち上る共通項があった。いや、気流舎という場所や、『気流の鳴る音』を媒介にしているため、その符号はむしろ自然なように感じる。

 

その他に、最近の読書経験の全く範疇外の本の名前がいくつか挙げられ、ふむふむとメモをする。自分の読書の触手がどのように動いていくかは分からないが、どれもおもしろそうだ。

 

久しぶりに初対面の人たちと出会ったなと改めて思った。

他者と交わる違和感も久しぶりに感じた。

自分ではないものが自分の世界へ入り込む不快感がはじめにあり、それがゆるやかに心地よさへと変わる。

他者を含む外界への不快感は、自分自身の不安を反映させるものだと気づき、ハッとした。

まだこの手の精神面の気づきと成長は多分にしてある。

 

定刻ほどまで本の話をし、その後自己紹介から、米国の人種差別の話になった。

日本でも、アメリカ全土に広がる人種差別に抗議するデモの広がりがニュースになっているようだ。デモの原因は、ミネソタ州ミネアポリスで黒人のジョージ・フロイドさんが白人警官に喉を7分に渡って膝乗りされ、「I can’t breathe」と言って殺されたことによる。

ジョージさんの死そのものより、その後の動きが大きく報道されているのだろう。

ニュースで繰り返し聞いた彼の肉声「I can’t breathe」が耳に蘇った。

 

それぞれが読み上げた本の抜き書き部分を文字起こしして主催者のまとめ用に送る約束をして、会を終了した。

 

終了後、パートナーの書斎へ行った。朝の挨拶もまだだったからだ。

パートナーは、「読書会に参加するなんて、とってもsexyだよ」と言った。

私もそう思う。本を読む人は、魅力的だ。

生涯で、この感性を共有できることは、私にとって奇跡だ。

 

またぜひ参加したいと思う。

気流舎の読書会、おすすめです。

気流舎ツイッターに最新情報があがります。