家事分担と(賃)労働について

私とパートナーは家事をそれはもう適当に分担している。テキトー。明確に分担してはいない。余裕のある方、やりたい方がやる。ちょっと大袈裟に聞こえるかもしれないが、相手を思いやり、気遣いあって、分担バランスに気をつけ続ける。負担になっていないか、尋ね合う。アンバランスだと感じれば申し出て、話し合う。そんなふうに家事を分かち合って、家のなかを快適に作っている。

きちっと分担しないほうが、今の生活と私たちの性質に合っているし、忙しさには波があるため、流動性を持たせておいた方が良いと思っている。

 

日本にいてパートナーと暮らしている時は、私が外に出て仕事をしている時間がパートナーよりも長く、パートナーは主に家や近くのカフェで仕事をしていた。しかも体を動かす仕事を自営業でやっていたので、帰る時にはクタクタだ。心身ともに使い果たし気味。このような状況だった時は、パートナーが家事をする時間が私よりも多かったような印象がある。昼食の準備、洗濯物を畳む、掃除、など。

 

今は、私の方が余裕があって、ニューヨークのアパートの水回りや、こちらの調理道具や掃除道具、プリペイドカードで使うコインランドリーなどにも慣れてきたので、楽しんで家事をしている。楽しい。家事が楽しいなんて初めてかもしれない。いや、久しぶりかも。

今、何がしたいって包丁が研ぎたい。船便で送った砥石を待ってる。

自分比(当社比的な)、包丁が研ぎたい時は、かなり余裕がある。

 

端から見たら、今、私は専業主婦に分類されるだろう。無職の専業主婦。その意識は表面的には無いのだけれど、心の奥の方に刷り込まれた感覚が「金を稼いでいなければ、私が家事の全てをして当然」と呼び掛けてくる。これは恐ろしい。自分でこの感覚が胸の奥から迫り上がってくるのを感じても、止めることは難しい。

朝に強く夜弱い私は、夕食を食べると途端に電池が切れたように眠たくなることがよくある。歯を磨くのも精一杯、時にはできないという有様だ。生理の時は特にそうだ。夕食の片付けをしたくてもできない。体が言うことを聞かない。その日、その他の家事の一切合切を自分でやっていても、この夕食後の瞬間、自分を責めてしまう。私がやらなければ・・・。私は今、賃労働をしていないのだから・・・。でも、私の体は正直で、その意味で非常に信頼がおけるので、疲れたならば動かない。いつからか、自分の意思で自分の体を騙すことは非常に困難になった。

このように眠かったある夜、

パートナーは夕食後「お皿洗うね」と言う。

私がやらなくちゃ。私、賃労働していないし。私、お金になることしていないし。

続けて「今日、他のこと全部やってもらったし。やりたい」と言う。

他に家事をしていたとしても、この日、パートナーは皿を洗っただろう。

頭の一部では、お金を稼いでいない人が全部家事をしなければいけない、という思い込み自体が欺瞞であると気づいている。「ありがとう」と伝え、お願いした。自分の心のなかの刷り込み気づいているのだ。でも、自分を責めることとセットになったこの感情を止められない。

家族の中では女が家事を完璧にこなすものだと、それができないのはありえないこと、許されないことであると。自分がやらなければ、自分がやらなければ。自分がやらなければ。自分は女なのだから。自分はお金を稼いでいないのだから。

自分の心のなかの言葉を露呈しているのだが、恐ろしいほどに偏った強迫的な思い込みだ。

私は、知っている。このような思い込みが、思い込みに過ぎないことを。

自分の育った家族と社会のなかで培われたものであることを。それがいかに拭い去りがたいかを。

そして、何よりそれが全てではないことを。

小学校くらいから、「男に頼らずに生きていきたい」「子どもは欲しい(かもしれない)けど、父親はいらない」と両親に宣言していた。大人になり、恋はすれど、男に隷属する気などさらさらない。私のことを家政婦のように見てくる男はこちらから願い下げだった。場合によっては、説教した。大学生時代に、イヴァン・イリイチシャドウ・ワーク』に出会った。上京し、大学院生時代にフェミニズムに出会った。

 

私は、学んだのだ。自分で歩いて、探して、苦しい時も嬉しい時も涙しつつ。「それ」が思い込みであることを。

 

今、そんな私の心の奥底から迫り上がってくるのは、良妻賢母、休みなく家事をこなす主婦の幻影。刷り込みとは恐ろしいものだ。

 

この文章を書いている最中も、何度、「パートナーがお皿を洗ってくれて」「掃除してもらってありがたい」というようなことをタイプして、書き直したか分からない。してくれたことに対して感謝するのはとても良いことだし、素直な感情だ。悪くない。何が悪いか、その言葉の裏側には「私がやるべきなのに」とか「手伝ってもらって申し訳ない」といった感情がついて回るものだから、何度も何度もそれらを打ち消すように、タイプし直しまくって書いている。

 

このような感情が湧き上がる日が続いたある日、思い切って(なんの思い切りが必要であろうか)パートナーに「間違っているのはわかるんだけど、今お金を稼いでいないから、私が家事を全部しなくちゃって思っちゃうの」と話しかけた。

パートナーからの返答はこうだった。

 

相手を思いやることは愛情の交換。申し訳ない気持ちとか、そういうのは思ってほしくない。お金を稼ぐ仕事をしているかしていないかは関係ない。ナミは、1日ほとんどの家事労働をしている。私はほとんど何もしていないし、家事やりたいって思う。それだけ。

 

家族やパートナーシップ、同棲などに伴う共同生活には、様々な形があるだろう。それぞれの共同体において、流動性を持たせつつ、構築していくのがベストだと思う。だが、生活しながら構築のプロセスを踏むのは、容易でない時もあるだろう。

とはいえ、日本社会における女性の家事分担の多さは見過ごせない。

 

この議論のなかには、賃労働、シャドウワーク、無賃だけどやりたいこと・やらなくてはいけないこと・やるべきこと、など、様々な人間のしごと(作業)が含まれる。人間が生きていくために必要な行いの中で、「賃労働」もしくは「金になる行為」だけが飛び抜けて、偉いような感覚を私は持っている。でも、ここから脱出したい。お金は必要。労働は大変。そりゃそうだ。でもお金に頭が振り回されているなと思う。

 

もっと、頭を自由にしたい。もっと自由になりたい。

足りない思考や知識はなんだろう。掛かってる呪いはなんだろう。

家事、家事の分担、賃労働、日々の行為。

どれも大事。優劣なく。眺められるようになりたい。

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抽象的な意味でプラトーに行きたい。(写真は近所のハドソン川です。対岸のニュージャージー州が見える)