ニューヨークの曇り空と詩のこと

今朝は早く目が覚めて、コンタクトレンズをしていないぼやけた視界のまま、窓の外を見た。曇り。明るい暖かな春の曇った空と、道向いのアパートメントが見える。

美しいなあと思う。

晴れていても、雨でも思うのだけれど。

美しいとか使わずに美しいと伝えられたらいいのだけれど。

 

私が住むのは1900年代に建てられた古いレンガ造りのアパートメント。

ニューヨークには、建物を建てる際には暖房器具の設置が義務付けられており、違法建築でなければ、部屋の隅にパイプを這わすヒーターが設置されている。セントラルヒーティングでスーパーと呼ばれる管理人さんによって管理される。さらに摂氏14度になったら暖房をつけなければいけないという法律がある。

ここのところの気温は摂氏10度前後と暖かいのだが、この法律では暖房点火が必要な気温なのでヒーターがついている。窓を開けなければ暑い。汗をかく。

この寒かった冬も室内ではほとんど半袖短パンで過ごしているし、夜は布団から半身はみ出して下着姿で寝ている。

暖かく過ごせるのはありがたいが、この地球温暖化のご時世、もう少し調整できたらいい。

前のアパートメントはオイルヒーターのパイプがカンカンと高い金属音を立てていた。今のヒーターは時折動かなくなるので、電動ドライバーで空気を抜いてやらないといけない。ちょっとした不具合がたくさんある。日本のように万全なものはあまりない。

でも愛せる。いとおしく感じる。とても好き。

お陰で私も少したくましくなった。工具は不慣れだがもう怖くない。

背丈が足りず、椅子に乗っても手を伸ばしても届かない所もあるけれど。

 

ベッドに入ったまま、枕をヘッドボードに積み背もたれにし、ぼやけた視界で詩集を読んだ。

詩集は、特別だ。ほかのどんな本とも違う。

読了を目指してガンガン読むものではないと思っているし、読めない。

時折開いて、数編読んで、閉じる。

パラパラとめくり、たまたま止まったページを読む。

また数編読んで、閉じる。

分かろうとすると、分からなくなる。

たくさん読みたくても、すぐに脳と心がいっぱいになる。

言葉にできない感覚が沸き起こり、共感覚のようなものがせり上がってくる。

 

詩はいいもの。詩集もいいものだ。

詩はすごい。詩人もすごい。

美しいものを、美しいという言葉なしに伝えてくる。

感情や感覚が言葉になる前の、あのじんわりとした形のないものを、言葉でもって差し出してくる。

受け止める私は、やっぱり言葉にならない、あのじんわりとしたものを抱えるだけだ。

 

今朝は珍しく、一冊の詩集を読み終えた。三角みづ紀さんの『どこにでもあるケーキ』。

忘れていた13歳の感覚と日々が、記憶が、蘇る。

どうしようもなくティーンエイジャーだった私。

詩と絵をかいていた私。

セーラー服を着ていた私。

今よりも意地悪で、他人の人生を生きていて、自分が嫌いだった私。

またすぐ開くだろう。

何度でも読みたい。またサイドテーブルに置いた。

 

詩集との付き合い方を変えたいなと思った。

もっとたくさん読んで、自分のなかの詩との付き合い方、味わい方を変えたい。

もっと詩を知りたいし、詩を楽しみたい。

 

コンタクトレンズをしないままで、また窓の外の曇りを見る。

とても静かだった。

(1309文字/40分/39日目)

 

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