暴力と気遣い(と愛)

1月6日、ルームメイトに緊急事態が発生し、ニューヨークを離れることになった(ここでは便宜上Aさんと呼ぶ)。翌日7日にAさんが出発するまで家を離れずサポートした。

 

落ち着かない状態になっているAさんを助けたいと思うのだが、大変なことが起きると頭の中が日本語になってしまい、英語を発することができない。必死にできることはないだろうかと考える。過去、こういうことがあったらどうしただろうか。何かしなくては、何かしなくちゃ…。何もできない自分を役立たずだと自分で責め始める。

そのうちに「何でもいいから役割をこなすことでコミュニティから承認され、自分が落ち着きたい」という欲求が心の奥にあることを発見した。これは実家族の日常や、法事や葬式などの家族行事が行われるなかで、父の機嫌を損ねないように獲得してきた思考だと気づいた。父の暴力と脅威を未然に防ぎ、それから逃れるために役割を探し続けて、幼い私は実家や斎場をうろついていたのだ。これは父を気遣うようでいて自分を守るのが第一目的の思考なので、真に相手のことを考えてはいない。

思考の癖というのは自分では認識しにくいので修正しにくく、脅威に晒されていなくても同じように考えてしまう。

私は、「今は暴力に晒されているわけではないから、自分を守らなくてもいい。だから何もしなくてもいい」と自分のなかで確認した。何を恐れ、焦っていたかを認知できた後は、簡単だった。あとは、愛に任せて行為するだけ。声がけもパートナーに任せてもいいし、Aさんの言葉を聞くことが優先であると分かった。

 

話し終え、Aさんが病院や友人、家族などに忙しく電話をし始めた。ひっきりなしにコールが続く。朝から飲まず食わずのAさんに私は水を渡した。謝意をAさんから受け取り、自分の新しい気づきと気持ちに自信がついた。

 

一段落したAさんからは要望が出てくるようになった。移動先とニューヨークの隔離期間や移動制限の確認、飛行機の予約、Airbnbの手配、昼食とフェイスガードやマスクの購入、夕食の支度などした。

 

困っている人も疲弊するが、その隣りにいる人も疲れる。Aさんの古くからの友人であるパートナーが一番にAさんに寄り添う。そのパートナーを私が気遣う。こうやって、誰かだけがしんどくならないように少しずつ、支え合った。

 

翌朝、一睡もできていないであろうAさんはウーバーに乗って空港に向かった。

 

(983文字/60分/14日目)

 

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この空の奥が空港。