京極夏彦『ヒトでなし』(コロナの状況アップデート含む)
めちゃくちゃなタイトルで書き出したもんである。
学生の親近者にコロナウイルス罹患者が出たことを受け(学生ではない)、大学は2日休校ののちに、すべての授業を遠隔(オンライン)で開講し始めた。予防と早期対処が大事な感染症対策において、迅速で的確な処置のように思われる。
消毒液などは前からそこかしこに置いてあったが、構内には予防方法の張り紙が増えた。
休校初日には、正門があるブロードウェイストリートには何台も報道者が駆けつけていて、気が気でな買ったその日は暗い気持ちになった。
そんなわけで、大学図書館はガランとしている。いつも勉強する学生で溢れていたので少し寂しいが、安心する。
通っているコロンビア大学東アジア図書館(通称ケント図書館)には、日本語、中国語、韓国語といった東アジアの言語で書かれた書籍が多く所蔵されている。書籍も辞書や文学全集、画集もあるし、新聞や研究雑誌もある。私には全くわからないが、なにやら相当古そうな巻物と思しき書物もある。ドナルド・キーン教授を記念する銅版レリーフもある。小さなお稲荷さん(お狐様)の飾ってある棚なんかもあり、誰のコレクションなのだろうと思う。
ケント図書館には、現代の文学や小説もある。さすがに全巻とはいかないが、吉本ばななや桐野夏生、村上春樹などは、代表作たちが英訳版と並んでいたりする。韓国語、中国語とともに日本語の本もあるその奥の深い本の森はいつもいろんな気持ちにさせられる。今回は京極夏彦を借りた。数冊しかない京極夏彦の棚に寂しさを覚えたが、あるだけありがたい。
私は京極夏彦ファンである。
きっかけは学部生時代に京極堂シリーズ『姑獲鳥の夏』を読んだこと。分厚い本を読むのが好きだった私は、兄の影響を受け彼に借りて読み、その後、ブワッと好きになった。
文章が絶対ページをまたがないとか、そういうギミックにも心を揺さぶられた。こういうの好きって私の中ではオタク感とか中二病感あるんですけど、どうですか。
今回読んだのは、『ヒトでなし』
すごいタイトルだ。嫌だし厭。いやすぎる。嫌。なんとなーく嫌な感じ。
以前読んだ『死ねばいいのに』よりいくぶんかはマシかもしれない。
4センチを超える厚みがあって、いいねと思った。
私は気分が悪くなるような暗い本を好んで読む性質があるので借りた。
仏教に興味のある人、おすすめです。
人間の人間らしいヒトでなしな部分と、非凡な人でなし(天才)が読みどころです。
子どもとの死別、離婚、失業、家なし、とひどい状況の主人公・尾田。
高級マンションに住むも、借金に追われる友人・荻野。
どん詰まりに思える二人から話は展開していく。
ある仏教の宗派がひとつの下敷きになっているので、後半の舞台は寺に移る。
尾田の言っていることは、全編576ページ、全く変わらない。
周囲の反応がどんどん変わっていき、コミュニケーションと人間関係が変わっていく。
周囲にとって尾田の存在はどんどん変わっていくのだが、尾田は変わらないから「お前ら何なんだ」となる。
尾田のような人間(ヒトでなしなんだけど)に憧れる気持ちがふっと湧く瞬間が何度もあり、憧れは湧いた時点で自分自身ではないので、自分は本当に凡人で人間臭いやつだなあと思う。
冒頭、街をさまよう尾田やコンビニにスウェットで出てくる荻野の姿を想像する時、私はなぜかいつも中野駅周辺を想像する。小説を読む面白さのひとつは映像を頭の中で構築することにある。
作中、人が殺されたり、自殺しようとしたりするのだが、「ああ。きっとそうだよね」と納得する。他人が納得するような「理由」が無いからだ。本人たちもその時も、その後もうまく説明できない。
私が本を読むのは、苦しみを抱えている人が何を考えどう思っているのか知りたい、という欲求がひとつあるからだ。そして私の脳みそが納得するのは、「分かんないよね」っていうことのようだ。火サスのような人も実際にはいるのかな、いるのだろう。これだって分からないだけで。
物語全般に渡って大体、厭なことや怖いことがどしどし起きて、嫌な気分なのだが、後半から最後に光を見ていく気分になる。登場人物たちの日々は、ものすごい濃さで過ぎていく。その濃度とスピード感はそのままに、最後は泥沼に光が射す感覚があった。果たして最後の展開が展望ある未来なのかと言われればそうでもないだろう。特殊で特別なことがおきるけれど、それすらも人間の社会の中でこそ特殊なだけで、なんだかとてもとても凡庸な感じがする。起きる全てに意味がなく、通り過ぎていくもの、という感覚になった。
仏教への興味がますます湧いた。