村上春樹『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』

36歳にして、初めて村上春樹を読了しました。

二十歳の時、『ノルウェイの森』を手に取り、なんだか、スカした空気感が嫌で、1ページ読んだか読まないかで読むのをやめて、そこからなんとなく苦手意識があって、一度も手に取ることがなかった。

 

読んだのは、これ。

『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』

 

たまたま、パートナーの本棚にあったからこれにした。読んだことないのに、直感で村上春樹作品を嫌いなままってもったいないことかもしれないと、わざわざ理由づけした。そこまで心を引かれていないということだ。小説や文芸作品において、同じ作者の著作を偏向的に読む傾向にある私は、新しい著者に挑むのはちょっと勇気がいることだったから。学術書やルポなどはそうでもないのだけど。

 

主人公は名古屋の出身の男で、高校時代までをこそで過ごす。明確な意思を持って、受験勉強をがんばって東京の大学に進学する。36歳、東京で希望通りの仕事をし、生きている。そんな主人公の、高校生時代、大学時代に経験した喪失を中心に物語が展開していく。

名古屋出身、36歳、作る仕事、大学進学で状況、そのまま東京ぐらし、若い頃の喪失体験の棘が心から抜けていない、、、なんとなく自分と共通点が多いように思えて、読み進められた。

 

文章中の、女性の登場人物の見た目の描写が、男性の登場人物と比べて多く、美醜の観点がそこにあって、それだけはとても嫌な感じだった。まあ、でも、一般的な日本人の男性を描くとそうなるのかな。だとしても嫌なのだけど。

 

物語の終盤、とても穏やかな涙が何度か、そしてそのいずれも何筋か出た。悲しかったのだと思う。初めての種類の感動だった。初めてのことをすると、出会ったことの無い自分や自分の感情や感覚と出会うことがあってとてもおもしろい。生きてるうちにたくさんの初めてと出会いたいなと思う。

 

ジェンダー的に嫌な気持ちになることはあったけれど、それ以外は、様々な感情や、感覚や、記憶やを揺さぶってくれて、良い作品だった、と思う。

 

詩的、分かりやすさ、文章の読みやすさ、現実に無さそうで無い(憧れはあるかも)主人公たちの会話の質。選ばれる音楽やお酒、服などの描写から醸し出される都会的な雰囲気。長い浜の浅瀬の海みたいなざわつきと清涼感と不安定と安定。こんなところから世界中から愛されるのかなあと思った。一作しか読んでないけど。

 

たぶん、私が村上作品を苦手なのは、日本の男性向けライフスタイル雑誌を読むのと同じような、日本っぽい独特のマスキュリニティを感じるからだと思う。「なんでもありませんよ。僕はこういうふうに生まれてきたんです。無理なんてしてなくて、これが僕の自然体なんです」というような感じを装って(あくまで装う)都会的でどことなくノーブルな雰囲気を醸し出す感じ。所有物や身に付けるもののさりげない高価さをさらりと挟むあの感じ。でも、その人そのものがあまり芯を食って伝わってこない感じ。

 

むしろ、男性雑誌が村上作品の雰囲気を取り入れてるのかなあ。

 

あとは、この作品の感想というよりも、そこから想起されたことをちょっと書いてみたい。

 

私も主人公が経験したように友人から突然拒否された経験が何度かある。

夏休み明けたら、呼び方があだ名から、名字にさんづけになっていて、一切話さなくなった人。

私の綴った長文エッセイに傷ついたとのことで、友人経由で「今後、話しかけないでほしい」と言ってきた人たち。

 

私の心にも今も棘が刺さっているのだ。その棘は、何年もかけてだいぶ小さく溶けたけれど、今も最後の少しの部分がまだそこに刺さっている。これが体のだいぶ中心にあるのだから厄介だし、ある種の核心部分なのだと思う。

人間にはこういう棘がいつくも刺さっているんだろうなと思う。そして、私も他者にこういう棘を刺したのだと思う。

 

昔に刺さった棘を溶かす作業(こういうのは、決して抜けないのだ。溶けていく、溶けてなくなっていくというほうが実感的に近い)は、できるだけするようにしている。いくつか方法がある。

ひとつは、時間がどれだけたっていようと、対話したり、謝ったりする。繋がりが途絶えていたところから、連絡を取り直して会いに行ったり、SNSで再会したりすることもある。当時は何もできなかった、わからなかった、精一杯だったということが結構ある。今だったら、自分なりに紐解けている感情もある。これが大きな再会になることもある。

ふたつめは、カウンセリングや自助グループに行ったり、認知行動療法的に自己分析したり、具体的に自分の棘が何なのか向き合う。痛みも大きいし疲れるが、長い目で見て同じ棘が刺さらない自分になる。そして、他人にも刺さない。

みっつめは、大好きな人達と愛の時間を過ごすこと。今を愛でめいっぱい生きること。棘とまったく直接対決しないのだが、不思議と棘は小さくなる。

 

私にとってダンスやパフォーマンスアートの作品創作は、テーマによっては自分でこの棘を無理やり抜いて取り出してみようとする行為でもある、ということが2019年に明確に分かった。それは、キツイよね。麻酔なしで開腹手術をするのだから。ここ数年取り組んでいた「私もフリーダです」は本当にそういう取り組みだった。表には出ていないけれど、もうひとつの未完のデュエット作品もそういうものだった。

 

棘が刺さることがあっても、他者と一緒に生きていきたいと思う。

他者の物語が、その人を中心に展開され、

私の物語が、私を中心に展開されて、

人生の時間がクロスしたり、離れたり、平行したり、

もう二度とクロスしなかったりする。

 

 

バラバラとまとめるとでもなく書いたけれど、

村上春樹、次は、英語版で読みたい。

英語のほうが良いと他者から聞いたから。