京極夏彦『姑獲鳥の夏』

京極夏彦の本を読んだ。

二十歳頃初めて読んだ彼の著作『姑獲鳥の夏

 初めて読んだのは、講談社文庫、美しい表紙だった。

おんなのつるんとした感じが好きだった。妖怪なんだけど。

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

  • 作者:京極 夏彦
  • 発売日: 1998/09/14
  • メディア: 文庫
 

 

初めて読んだ時の登場人物の印象は、

中禅寺秋彦は怖くて人情味に欠ける人

関口巽先生は情けない人

榎木津礼二郎は変な人

木場修太郎は屈強な人

中禅寺敦子は溌剌とした人

久遠寺涼子はかわいそうな人

 

外れてはいないだろうが、人物の一面しか腑に落とせなかった。

登場人物の心の揺れについてゆけず、違和感をいだきながら、

人間の機微や情動は脇においておいて文字を目で追い、頁をめくったのだろう。

文字を追うこと自体に快楽があり、頁をめくることにも執着していた。

 

私は頭が悪かったというか。

脳みそも目も開いていなかった感じさえある。

それはそうだろう。

「厚い本を読みたい」というおばかさんな欲求で読んでいたのだから。

恥ずかしいことに、私の中には

頭がよくなりたい、ものを知りたいの隣に

頭がよく見られたい、驚かれたい、感心されたいという感情があって、

その感情の露出の仕方が「厚い本を読む」だったのだから。

ミヒャエル・エンデを何度も手に取り、

何度も挫折した小学生のときには既にこのことを考えていたのだ。

ほんとうにおばかさんである。

幼い子どもの浅い考えだった。

この浅知恵を成人してからも持っていたのだからなんとも言えない。

子どものときの欲求というのは恐ろしい。

人生を決めてしまうようなところがある。

社会的な愛(のようなもの)を求めるものである場合は特に。

 

それが直感と喜びを伴うものでなく、

どうやったら注目されるか、どうやったら愛されるか、

特別だと思ってもらえるか、褒めてもらえるか、

そういったものに執着していた。

80年代に生まれ、日本の田舎で育った子どもの社会など広いものではない。

どうやったら親から愛されるか、それだけだったように思う。

 

きっとそれは都会で生まれても、今この2020年に生まれても大差ないだろう。

 

今、あの頃を収斂させてしまうならば。

たぶん、褒められたのだろう。もしくは、褒められたと感じたのだろう。

厚い本を読んでいる姿を。

もしくは、その学年では読めないような本を読んでいる姿を。

 

本を読まない父親は、なぜか本だけは欲しいだけ買ってくれた。

 

転じて、今は、終わらないような厚い本を読むのも好きだ。文章量によってでしか、表せないことがある。物語が二転三転したり、専門書であれば事例が多く語られる、など。厚みはただの結果で意味はない。意味は無いのだ。

 

今、改めて読むと、印象がだいぶ変わった。やはり面白い本だった。

登場人物の情緒や機微も感じられたし、

中禅寺秋彦による脳科学や心理学や民俗学に関する語りも、分かる。

あのときの自分は何を読んだというのだろうと思うほどだ。

あまり分かっていなくても、

この本は面白いということだけは伝わっていたようだ。

たぶん。

 

少なくとも同時期に読んだデカルトよりは面白かった。

面白さの種類は似ている部分がある。

 

今読んだらデカルトも相当面白いかもしれない。

 

自分にとって彼の著作は、欲しいほどには無いこの頭で、

このように、粗雑な分析めいたことをしたくなる一冊でもあります。

 

脳みそがどんどん動いて面白いのでおすすめです。