結婚証明の取得と苗字の話(1)

2020年1月21日、ニューヨーク市市役所(NY city clerk's office)に結婚証明の申請に行ってきた。

予め、予約を取って、パートナーとひとりひとつ身分証明書を持って。念のためボールペンを持つ。書きにくそうなボールペンで署名するのがなんとなく嫌だから。

外は、マイナス6度C。風があったら体感温度はマイナス10度Cくらいに下がる。お洒落なんてする余裕なく、ともかく暖かく着ることが至上命題。

 

1週間ぶりに地下鉄でダウンタウンへ。

街並みや建物や地下鉄の古いモザイクがとても綺麗で写真に納めたいのだが、寒すぎてケータイを出す気にならない。

ちょっと緊張している。落ち着かない気持ちもある。

古く美しいホールに、警察による空港のようなセキュリティチェックを受け、受付番号を取る。順番にカウンターに呼ばれる。カウンターの横には名刺を渡そうとするカメラマンたち。そうか、今日の記録をプロに頼みたい人がいるのか。

 

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役所の中。窓口のホール。

落ち着いた雰囲気の天井の高い美しいホール。花束や飾りを売る売店やフォトブースがあり、美しく着飾った人たちがいる。本人たちだけでなくて、小さな結婚式のように友人や家族と思しき人に囲まれた人たち。特別な雰囲気の民族衣装を身につけた人。

そこで私は、「ああ、これはとてもとても特別な行為なんだな」とようやく気づく。

 

ちょっとおかしかったのは、フォトブースの近くでカウンターにもたれかかって、「証人いる?自分がなるよ。これまでたくさんのカップルの証人になってきたんだ」と言っているおじさんがいたことだ。胡散臭くて良い。そういう小商いなのか、役所のスタッフなのか、売店のおじさんなのか、趣味なのか、全く分からない。ちなみに、結婚証明を取るには、一人の証人の同行が必要。

 

米国全土は同性婚が認められている。2015年、サンフランシスコの市役所に行った時は、何組かの同性カップルの結婚セレモニーを見た。見回すと、一見、シスカップルばかりだが、本人たちの自認は分からないのだなと思って安心した。

 

結婚証明を取るのは2日必要。1日目は申請。結婚する二人が揃っていることとそれぞれの身分証明が必要。翌日、24時間以後に再度役所を本人たちと証人と共に訪れ、小さなセレモニーをする。これにて完了。

今日はその初日。

受付番号が呼ばれるのを少し待った。2時間待つこともあるとネットで読んだが、トイレに行っていたらすぐだった。トータル15分くらいで順番がきた。カウンターで、本人確認、婚歴の確認、母親の旧姓確認、結婚後苗字の選択、用紙への手書きサイン、手続き料35ドルのクレジット支払い、以上終了。拍子抜けするほどに早い。ちょっと緊張して、母親の旧姓をアルファベットで言い伝えるのを間違えてしまった。

w-a-t-a-n-a-b-e  。

初日の部、以上終了。

横長の受付ホールは一方通行になっており、入った扉と反対から出た。

天気が良い。役所の外には、薔薇の花束を売る屋台やカメラマンがいた。

 

これに伴って、苗字の話がしたい。時系列が戻るが、この申請の2日前の話。

私(とパートナー)が今日のために、苗字を選ばないといけないと知ったのは、日曜日の夜。初日の申請が火曜日だったから、たった2日前。友人と近所のバーでビールを飲んでいる時に、その友人が教えてくれたのだ。しかも、月曜に申請に行こうと思っていたが、キング牧師の日という祝日で役所が休みだったので、考える時間が1日、たまたまできたというだけだ。月曜が役所が休みのようだというのもその会話の中で知った。

大事なことは、細心の注意を払って調べあげ、todoリストを作り、確実に抜かりなく準備するのが私の好みなのだが、法的結婚に関心がなさすぎて、下調べや準備を全くしていないという感じの私が良く現れているなと思った。
私もパートナーもふたりとも苗字を変えるということが頭になかった。夫婦別姓ができない国で生きてきた私は、突然目の前に選択肢が開かれて驚いたし、話しあって来なかったのでちょっと焦った。

飲み会から帰って、慌てて検索したりしたけれど、なんだか付け焼き刃の知識は良くないなと思ってすぐやめた。今ある知識や知恵と感覚で考えようと思った。

 

米国は夫婦別姓が認められている国なので、選択肢は、

夫婦別姓(結婚する前の苗字を二人ともそのまま使う)

・どちらかの苗字に合わせる

・ダブルネームにする(自分とパートナーの苗字を並べる。順番も選べる)

・ハイフンで苗字をつないで新しい苗字をつくる(例えば、私がGonda、パートナーはRogers(ロジャース)なので、Gonda-Rogersとか、Rogers-Gondaとか)

・互いの苗字に関係ない全く新しい苗字を選ぶ(例えば、私は「真田(Sanada)」という苗字がカッコいいと思うのだけど、GondaをやめてSanadaで申請することもできる)

多分まだ選択肢もあるんだと思うけど。知ってるぶんだけ書いただけのリストだ。

 

翌月曜。何度かに分けてパートナーと話す。

結論としては、苗字は変えない。以上。

 

絶対無い選択肢は、私がパートナーの苗字になることだった。女が男の家に嫁に行く、という形を取りたくなかった。そして、私は自分の苗字は割と気に入っているので、ここで捨ててしまうのはありえないことだった。

 

逆に、パートナーが私の苗字になることもありえなかった。自分の苗字は好きだが、自分の家のメンバーシップに引き入れるようで居心地が悪いし、気持ち悪い感じがした。全く喜べない。

 

ダブルネーム、これはありえる選択肢だった。互いの苗字を並べるのだ。多くの国際カップルがやっているのではないのだろうか。互いのルーツを尊重できるように感じるし、スペイン語圏では、これが当たり前の国もある(ただし、父方の苗字を取るというのも聞いたことがある)。

 

ハイフンで苗字をつないで新しい苗字をつくる。これもありえる選択肢だった。特にパートナーは、やるならばGonda-Rogersが良いと言っていた。ただ、実際使うとなると長いし、将来仕事で不便だなという話になった。発音しにくいし。

 

互いの苗字に関係ない全く新しい苗字を選ぶ。ありえなくないけど、あと1日で考えるのもなあ、と思ったのでやめた。ある苗字の中から新しいものを選んだところで、そのルーツを辿ったりすれば嫌な部分に出会うだろうし、完璧なものはないからだろうから。宇宙語でも知っていたら良かったのに。私は、赤ちゃんの時に、日本語以外の言語を話していた記憶があるので、その言葉から選ぶのもあるかなあと思ったけれど、その言葉のほとんどを忘れてしまったし、覚えている言葉も、あまり心地良いものじゃない。存在するかも分からない宇宙言の苗字、良いな。でも言語体系が想像の範囲外ってこともあるしな。映画、「メッセージ」みたいに(好き)。でも良いアイデアだな。

 

正式な登録と、日常で使う通称を別のものにするという手もある。けれど、システムを助長すること、システムに加担することをできるだけしたくない。どうすれば良いんだ。

 

どの方法を選んでも、今の互いの苗字から変えるのであれば、パスポート、銀行口座名義、国際免許、これからのビザなどなど、全ての手続きがより煩雑になる。すごく面倒だ。すごく面倒。

 だんだん、考えているうちに、「なんでこんなこと考えないといけないんだ」という気持ちになった。この時間こそ、システムに絡めとられていて、腹立たしいし、なんで頑張って抵抗しなきゃならんのだと思った。

なんらかの変更を伴う形を選ぶのであれば、それがシステムを容認しない姿勢を表す方法であったとしても、煩雑な手続きを生む。性別や結婚や家や、国家による個人の管理に巻き込まれてしまうのだ。

 

だから、シンプルに、

苗字はお互い今のまま。

 

決めたら、清々しくて、

以上。

終了。

お疲れ様でした!

という気分だった。

 

苗字が選べるのは良いことだ。

日本の国会ではまた、選択的夫婦別姓を取り扱うの発言の中で、ヤジが飛んだというじゃないか。「じゃあ結婚するな!」とかなんとか。苗字を選べないことは、1985年に日本も批准している国連の「女性差別撤廃条約」に違反しており、日本は何度も国連から勧告を受けている。夫婦別姓を認めていない国は、世界でも日本だけ。人権後進国と言えるだろう。夫婦別姓問題に反対する人たちは理由として「家族の絆が壊れる」と言うけれど、本当にそうだろうか。日本以外の夫婦別姓を認めている全世界には家族の絆は無いのだろうか。


苗字ひとつで人間は変わらないし、苗字は愛を存命させたり延命させてくれない。家族や愛を延命させるのは終わることのない丁寧な関係性の構築(対話や傾聴)だと思う。

昔、326(ミツルと読みます。懐かしいね)という詩人の作品の中に「ふたつめの名前であなたと同じ道」(で私とても幸せ!!)というものがあり、十代だった当時その意味が全く分からなかった。婚姻制度が分かっていなかった当時も、多少理解した今も私は、この作品と同じ幸せは分からない。同時に、夫婦同性の幸せを自分の幸せだと思っている人のことは想像できる。そして否定しない。

 

ノーベル平和賞を受賞したアマルティア・セングラミン銀行などで貧困問題解決に取り組む)は、「貧困とは、選択肢が無いこと」であると言っています。逆から言えば、豊かさとは、選択肢があること。この発言は、貧困とは何なのかについて発せられたものですが、社会の豊かさを考察する時にも使えると思っています。

今回私は、結婚に関する苗字変更という状況でしたけれど、それ以外でもどんな苗字も、いつでも、どこでも、誰でも選べる。理由は問われない。

寛容な社会こそが豊かさなのではないかと考えています。

 

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書類受付カウンター。天井がきれい。古い建物はいい。

 

行ってきます会を振り返る(ほんでこれからを考える)

東京を離れる前に、4つイベントを用意しました。

できるだけ、多くの人に再会してから渡米したかったから。忙しい東京の暮らしでも、4回何らかのイベントがあれば、どれかに予定を合わせてもらえるんではないかと思ったので4回。東京でお世話になったスペースのどれもでイベントをしたかったけれど、全部はちょっと無理ということで減らして4回(3箇所)。

ビザの準備も、全てを引き払わないといけない引っ越しも、全部全部初めてのことだったので、お別れ会を準備することはできるんだろうか、、、と不安でした。不安のままほっておいて、一番必要な準備をやっていっていました。

結局4つできたのは、友達が声をかけてくれて、「やってみない?」とか「準備手伝うよ」と言ってくれたからです。途中で、4つも用意してしまって、本当に人が来るのか、お店に迷惑をかけないかしらととても心配になりましたが、各日当日は、いろいろな人が来てくれて、本当に嬉しかったです。

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おなじみ高円寺のロカキッチンも会場のひとつでした。

 

密な人数でしっかりと話せた日もあれば、たくさんの人が入れ替わり立ち替わり来て、ワイワイと楽しかった日もある。先週の続きのような変わらない会話をして、それが来週も続くようで、穏やかに嬉しかったりもしました。ずっと友達だった人に、私の考えを改めて伝えて、今までしたことなかったような会話になる日もありました。

 

私は感情の感覚がすぐ深いところまで開きます。それはもう、カウンセラーに止められるほどにパッカーンと。どれだけ暖かな感情でもエモーショナルになると疲れるので、そうなるのが怖い日も結構あり、感情的になりたくないなと思ってしまいます。だから、この文章を書くのも躊躇われているのですが、でも書いて公開しておきたいです。(ので頑張ってるよ!て話)

 

いずれの会も、暖かく人が往来し、誰もが私に会いに来て、本当に尊いことだと思いました。忙しい東京の生活で時間を割いて、複数回来てくれたり、気の利いた差し入れをしてくれたり。お土産をくれたり。その人がそこにいるだけで有り難いのに。

さらに笑いあったり、話しあったり、お酒を飲んだり、食べたり、楽しそうにしている。そしてそのなかで、知らない人同士が交流し始めたり、久しぶりの再会になる面々がいたり、新たな交流が生まれる様を嬉しく思い、人間の優しい力を感じたのでした。

 

瞬間瞬間が愛おしく、思い出すととても暖かで幸せな気分になります。

楽しかったな〜〜!

 

この会の他にも、改めて会えた人、電話をくれた人、メッセージを送ってくれた人、これ以外の人も、たくさんたくさんいて本当に、今まで、たくさんの人に出会って、愛し愛されてきたのだと思いました。

これからは、この暖かい関係に加えて、より具体的に助け合って生きていきたいです。2019年にひとりの大事な友人を天国に見送り、一人暮らしの部屋の片付けを手伝ったのと、友人のご両親の介助の手伝い、さらにはお母様の天国への見送りなども手伝ったことが大きく影響しています。

この考えの根底には経験的に獲得した、アナキズムの相互扶助の思想があり、野宿者運動への参加があり、各種社会運動や政治への関わりがあり、踊りや表現のクリエイションがあり、シェアハウスでの生活があり、障害者の方の自立生活支援があり、パートナーとの暮らしと関係があり、血縁家族との決裂から再会があります。(きっともっといろいろ)

 

人間は共に生き、支え合える。血縁家族を超えて。

 

そう、確信しています。それを行う過程は、結構大変なこともあります。それでも、でも、それを心から望んでいます。なぜなら、面白いから。なぜなら、誰にも何者にも囚われない自分の力と湧き上がる喜びを感じるから。

 

どうやってやるかは、具体的にひとつずつ取り組んでいく他ないんだけど、私はそういう感じです。どうぞこれからもよろしくお願いします。

 

生きとし生きるもの全てが幸せでありますように。

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以下に、日本語と英語で各種「行ってきますパーティー」へのお誘い文章を掲載しておきます。こちらも結構気に入りの文章なので、読んでもらえると嬉しい。

 

ゴンダナミ出国前イベントのお知らせ

 

トーキョーで出会った友人やコミュニティなしには、私は生きてこられませんでした。

もちろんトーキョーにはやるべきこともあった、政治にも関わりたかった、文化もある、でもなにより、みんながいるから、トーキョーで生きていきたかった、それだけの理由で住み続けました。

2020/1/14のフライトで、アメリカ合衆国ニューヨークに移住します。

これからも楽しく生きるため、そしてパートナーと暮らすためです。

向こうでは、踊りや振り付けなどにも力を入れつつ、血縁家族に囚われず、様々な人、動物、植物と暮らしていきたいと思ってます。例えば、里子、留学生、友人、旅人、犬、猫、鳥や植物たちと。

米国にお越しの際は、連絡ください。遊びましょう。電話番号以外、連絡先は変わりません。LINEや各種SNS通じます。

またトーキョーにも、戻ってきます。バケーションでも戻ってくるけど、杉並区議会議員になるのにも興味があります。

 

しばしのお別れ、寂しいな。

ぜひ、会いに来てください。

 

愛してるよ。

私の人生に登場してくれてありがとう。

 

以下、イベントinfoです。

お誘い合わせの上。転送大歓迎。

 

 

2020/1/8/水曜/18:00〜

下北沢・気流舎にいます!の日

お店は通常営業しています。いつも通り、美味しいチャイやワインやビールがあります。わたし、おりますので、会いにきてくれたら嬉しいです。おしゃべりしましょう。気が向いたら小さく踊るかも。

 

気流舎info

 

http://www.kiryuusha.com/about_kiryuusha

 

 

2020/1/9/木曜/19:30〜21:00

自由芸術大学ストレッチ講座(最終回)

参加費:2500円(ビジター)、チケットをお持ちの方はお使いいただけます。

会場:高円寺・素人の乱12号店

166-0002 東京都杉並区高円寺北3-8-12-2F

JR中央線高円寺駅下車徒歩7分

 

基本のおさらいをしていきます。初めての方も、そうでない方も。先生がいなくてもまちがわずにできる身体ほぐしメニューをご用意して待ってます。

 

 

2020/1/10/金曜/19:00〜

自由芸術大学ストレッチ講座まとめ「生きること、暮らしと身体〜資本主義社会のなかの身体とダンス・パフォーマンスまとめ講座」

 

開場:18:30/スタート:19:00

20:30まで(その後はゆっくり交流会)

講師:權田菜美(ダンサー)

入場無料・会場費カンパ歓迎

会場:高円寺・素人の乱12号店

166-0002 東京都杉並区高円寺北3-8-12-2F

JR中央線高円寺駅下車徒歩7分

 

この2年続けてきた講座のまとめのお話をします。ストレッチを交えて体感しながら、身体と社会についての関わり、生きることと身体の関わり、についてです。終わったらその場で交流会をします。差し入れ歓迎です。

 

詳細・コンセプト

生きること、暮らしと身体――資本主義社会のなかの身体とダンス・パフォーマンス まとめ講座 - 自由芸術大学

 

2020/1/12/日曜/16:00〜22:00

高円寺・Loca☆Kitchenごんだ行ってきますパーティー

 

高円寺のヴィーガン・カフェバー、Loca☆Kitchenでのパーティーです。

店長のやっちゃんのご好意で、飲み物はいつもよりお安いワンコイン(500円)、カンパフードも少し用意してくれるそう!(楽しみ)

食べ物持ち寄り歓迎です!!

ふらっときて、ふらっと帰るスタイルでも、みっちり交流スタイルでも気軽に来てね。

 

Loca☆Kitchen info

 

https://locakitchen.wixsite.com/locakitchen

 

(English following)

Info on Events Before I Leave Japan

 

There is no way I would have survived this long without the friends and community that I made in Tokyo.

 

There were of course things I needed to do in Tokyo. I wanted to get involved in politics. There was the culture. But more than anything, I decided to keep living in Tokyo this long because all of you were here.

 

On January 14, 2020, I will board a flight and move to New York, USA.

 

I'm going in order to keep on pursuing happiness, and to live together with my partner.

 

While there I want to continue to put my heart into dance and choreography, while also living together with a whole range of animals and plants and people, regardless of whether they are related by blood, like foster kids, exchange students, friends, visitors, dogs, cats, birds, and plants.  

 

If you come to America, please get in touch. Let's hang out! Other than my phone number, my other contact information like Line and other SNS will stay the same.

 

I will also come back to Tokyo. I'm sure I'll visit on vacation, but I'm also interested in becoming a member of the Suginami City Council.

 

It's really sad to say goodbye for the time being. So please come out and see me!

I love you all.

Thank you for coming on to the stage of my life.

 

Below is info on some events I'll host before leaving.

Please feel free to share and bring friends and loved ones.

 

 

Wednesday, January 8, 2020: Starting at 18:00

"I'll be at Kiryusha in Shimokitazawa!" Day

 

The cafe will be open for business as usual, serving delicious Chai, wine, and beer, etc. I'll be there and I'd be thrilled if you come to see me. Let's chat! I might dance a little if I feel moved to.

 

Kiryusha info

http://www.kiryuusha.com/about_kiryuusha

 

 

Thursday, January 9: 19:30-21:00

 

Free Art University Stretch Class (last session)

 

Fee: 2500 yen for visitors, but if you have a ticket you can use it.

Location: Koenji, Shiroto no ran 12-goten

2F, 3-8-12 Koenji kita, Suginami, Tokyo 166-0002

 

Seven minute walk from JR Koenji station on the Chuo line

 

We'll do a survey of all the basics. Please join us even if it's your first time. I've got a lineup that can help you relax your muscles even without a teacher there.

 

 

Friday, January 10, 2020: Starting at 19:00

 

Free Art University Stretch Class Sum-Up

Daily Life and the Body: A Lecture Looking Back on the Body, Dance, and Performance in a Capitalist Society

 

Doors open at 18:30, starts at 19:00

Ends at 20:30 (but we'll hang out afterward)

Lecturer: Gonda Nami (dancer)

Fee: donations accepted to pay for the space

Location: Koenji, Shiroto no ran 12-goten

2F, 3-8-12 Koenji kita, Suginami, Tokyo 166-0002

Seven minute walk from JR Koenji station on the Chuo line

 

Details/Concept

 

I'll give a lecture summarizing the last two years of leading class, talking about the relationship between the body and society, and between life and the body, while also doing some stretching together. Afterwards, we'll have a small party and make a hotpot together. Feel free to bring food!

 

 

Sunday, January 12, 2020: 16:00-22:00

 

Farwell Gonda Party at Loca☆Kitchen in Koenji

 

We'll be having a party at Loca☆Kitchen, a vegan  cafe/bar in Koenji.

 

Thanks to the kindness of the owner Yatchan, drinks will be even cheaper than usual at just 500 yen, and she'll prepare some food too! (I can't wait...)

Please feel free to bring food to share!!

 

Please feel free to come even if you can just stay for a second or if you'll be there the whole time.

Loca☆Kitchen info

https://locakitchen.wixsite.com/locakitchen

結婚指輪の話

ニューヨークに引っ越しました。2020年1月14日付け。

これからも楽しく生きていくため。パートナーと暮らすため。引っ越しました。先週から移民です。

いろんなことがありますが、今日はちょっと指輪の話を書いておきたい。

 

ニューヨークに着いた当日、パートナーは私にいくつかのサプライズプレゼントを用意していてくれた。出発直前に電話で「サプライズを4つ用意したよ!」と言っていたので、とても楽しみにしていた。

 

ひとつ目は、お花。

部屋に入ると、白いダリアと百合を中心にまとめられて、グリーンが周りを彩る。大きな花束がでかいジャーに挿してあった。白とグリーンのアーバンな組み合わせはとても好き。お洒落。私の好みを考えてくれたのだと分かる。多分、パートナーは知らなかったと思うが、百合は私の一番好きな花で、大振りのダリアもかなり好きな花だ。

 

プレゼントを贈ることは、贈る方も選ぶ時間という愛の時間を持つことができる。愛する他者を感じ考えることができ、かつ愛をダイレクトに表現できるとても素敵な経験だと思う。

 

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ニューヨークの部屋。

 

ふたつ目は、シャワーヘッド。

シャワーヘッドが固定された不便なものだったので、ホース付きを買っておいてくれた。快適。生活の快適さは、大事。ちゃんと足とかお尻とか洗えます。シャワーヘッドを固定する場所が高過ぎて私の手が届かないと分かり、ふたつめのホルダーを買い増した。

 

みっつ目は、キッチン用折り畳みスツール(踏み台)。

新宿のCafe Lavanderiaのイベント時に出てくるあの小さい椅子。私がキッチンの高い棚に手が全く届かないので、用意しておいてくれた。アメリカサイズというか、ちょっとキッチンが大きいのだ。高い棚が届かないのは日本も同じなんだけど。

 

よっつ目は、指輪。

様々な色の宝石が並んだデザイン。とてもすてきで、服飾品にお金をあまりかけない私たちからすると、奮発したんだなあということが伝わってきた。

可愛くて、嬉しかった。サイズが合っていないことを笑い合った。同時に戸惑った。他の3つのように心から喜べなかった。パートナーから指輪をもらうとは予期しておらず、本当に、パートナー自身はこれでいいのか?という疑問が心のそこにあった。以前、指輪や結婚式には抵抗があることを何度か話し合っていたからだ。

私も、バージンロードを歩くこと(自分の所有者が父から配偶者に変わることの象徴)や、指輪をすることで「恋人がいるんです」と表現する感覚などに違和感があった。

 

指輪を渡された時パートナーは、「結婚の習慣ではダイヤモンドだろうけど、クイアなレインボーカラーにした」「デザインが好きじゃなかったら、選び直そう」「右でも左でも薬指にしなくてもいい。それは伝統的な習慣だから」「ナミが幸せなら私も幸せ」と繰り返した。

 

到着当日は、渡航前からの寝不足、羽田ーニューヨーク直行便12時間のフライト疲れなどで、指がむくんでいて、もらった指輪は、すぐに丁寧に外した。

 

翌朝、朝一番で指輪を取り出して、「どの指にはまるかな〜」と思いながら、どの指もきついか緩いかだったので、結局右手の薬指につけた。

パートナーと一緒に、コーヒーとシリアル2種類、ブルーベリー、アーモンドミルクの朝食を用意して、リビングのソファで食べる。

食べたあと、今日どうするか、生活を整えるのに何をする必要があるのかといった話から、指輪の話になった。

初めは、指輪のサイズを実店舗に行って交換しようという話から、本当に私がデザインを気に入ってくれているのかどうか、デザインも気に入らなければ変えていい、という話など。いやに「ナミが幸せなら私も幸せ」と繰り返すなあと思いながら話を進めていくと、

本当は、指輪はどっちでもいいということ、地元で両親や親友と話すうちに、その伝統や愛情表現方法の重力に引っ張られて、指輪を買ったこと、せめてもの思いでたくさんの種類の宝石が並んだクイアなレインボーカラーのデザインにしたこと、そんなことがパートナーから話された。

私は、指輪や結婚式などへの憧れもあるけれど、でもそれは本当に自分が自分として嬉しいというよりも、親を喜ばせたい(そのために自分は自分の心を殺したり、お財布を開いたりしてちょっと無理してもいいかな)、綺麗なドレスを着てみたい(非日常的に美しく着飾りたいコスプレ的欲求)、指輪という高価なものが欲しい(80年代生まれ的な物欲やブランドへの憧れ)、という愛とは関係ない欲求からくるものだった。それは今でも変わらない。

それと同時に、私は、女性がイエの所有物・財産として扱われる家父長制や、戸籍に本当に嫌気がさしていた。それは自分を不幸、不自由にするものだと思っている。

私とパートナーは、クイアカップルではあるが、見た目や制度上は男女カップルなので、伝統に乗っかることもできる。だからこそなのか、困ってしまう時がある。「結婚式はいつ?」「ハーフの子どもは可愛いだろうね」など無意識の言葉たちによって。

これら無意識の言葉たちを責めたいのではない。無意識は社会が作り出すものだ。互いの違和感があるときに、本当の気持ちを伝えられる間柄を構築したい。そのための時間をつくる人生でありたい。丁寧に、丁寧に。

 

話が少しそれたので、戻す。

パートナーと話し合っていくうちに、お互いの気持ちが明確になった。

結婚制度を象徴するような指輪はいらないということを確認し合った。

指輪を選んでくれたことや、指輪のデザインそのものはとても好きだということを伝え、その愛を受け止めた。感謝していて、とても喜んでいることを伝えた。

 

私は、モノガミーとそのカップルを否定しない。

伝統的家族を営んでいる人たちも否定しない。

以前の私だったら否定的な感情も強かったが、それらの仕組みのなかで、幸せに生きる人々を多く目の当たりにし、ある人々にとっては、それらは悪いものではないのだと分かったからだ。人にとって良いものが自分にとってもそうであるとは限らない、それだけのことだ。

しかし、それらを肯定することが、他者や、他の選択肢や考えを否定するものである時は、全力でそれと闘いたいと思う。聞き、話し、理解し合おうとする方法で。

 

パートナーの父親は牧師さんで、パートナーはキリスト教の色濃い家庭や環境、地域で育った。両親からの結婚式の勧め受け答えるパートナーの言葉に助けられた。「それはお父さんたちの伝統。私たちの伝統は私たちでつくるから」と伝えているようだ。自分の主張をし、理解を求めることが理由であっても相手を否定しない姿勢とコミュニケーションを素晴らしいと思う。

 

宗教や伝統や習慣を踏襲しないことは、それを大事に思う相手を否定することではない。私(たち)は、私たちの伝統をつくるだけ。そして、世界にはそれが並立するだけなのだ。対立は、本来、ないはずだ。

そこに対立を見出すのが人間なのだと思う。ただ、そこに「在る」ものに対して、優劣や価値を見出す。大抵は、自分を守るために。地面に生える草にだって価値の有無があり、価値のないものを殺すことを厭わない思考を持つのだから。

その雑草、抜かなくたっていいじゃん。

今流行りのダイバーシティの話にもなるんだろうけど、多様性ってのは認め合って、ほっとき合うっていうのは大事だと思う。

 

伝統や習慣、婚姻制度、家父長制の重力は強い。

いつでも私を、憧憬や幼い憧れなどによって、そこに引き戻そうとする。

これこそが、お前の幸せなのだよ、と。

伝統に従い、男に従い、大人しくしていることが、お前の幸せなのだよ、と。

しかし、私の自由な心は知っている。私はそれでは幸せになれないと。

私は、それを「我慢」だと感じてしまうということを。

 

だから、私(たち)は結婚指輪を返送する。返金ももらう。そのお金でまた何か他のことをする。そう、決めました。

 

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いつでも花は美しい。えも言われぬ華やかな気持ちになる。

 

日記

植本一子さんの本に影響されて、もっと日記を書こうと思った。日々、結構たくさんのことを思うのに、もったいない気がするから。セラピー的にも良い。

友達のマリコさんは、ずっと毎日ブログを書いてる。凄いことだ。

 

諸々もありのままで出していけたらいいなあとも思う。不安とかさ。そういうの。外の目を気にし過ぎて、ちょっとカッコつけてるからな。まあ、ぼちぼちで。

 

ツイッターだと流れてっちゃうし。

フェイスブックも流れてっちゃうし。

単純に、純粋に文章が書きたい。

 

それをブログに公開できたらいいなあ。ノートに日記をつけてるんだけれど。そこまで精度を上げられなくても、アップしてもいいのかもしれないし。

 

何がどう積み重なっていくか分からないから、実験したい気持ちです。

今日も光がきれい。

 

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吉本ばなな『「違うこと」をしないこと』

 下北沢のティッチャイで一人晩御飯をしていて、みゆき隊長(店長)から借りていった本。読み始めて速攻で自分で買いました。

(ティッチャイには「図書館」機能があって、本を借りられるのです〜!良い!)

「違うこと」をしないこと

「違うこと」をしないこと

 

 

この本は、自分がダンサー生活をし始めてから、右も左も分からず、騙そうとしたり利用しようとしてくる人と、仕事や人生を分かち合っていこうという意思のある人との区別もつかないところから、歩んできて分かったことが、めっちゃいっぱい言語化されてる!と思って一気読みしました。

 

私は、親の悪影響が強く、親のために生きるような人生を長いこと歩んできてしまったため、本当は自分が何がしたいのか、何が欲しいのか分からないという期間が長〜くありました。1983年に生まれてから、そうだな、きっと2016年まではそういう人生でした。33年、長いね。

 

勤め仕事を辞めて、仕事を作りながら生きてきてみると、「自分とは波長が合わなくて、なんかモヤモヤするけど、仕事くれるからな。良くしてくれるからな。仕事する人全部と何から何まで合うわけないよな」という感覚のことが結構あって。でもその仕事やその人たちとの関係を続けると、また分からなくなってくる。関係を続けても、ブレない自分がいれば大丈夫なんだろうけれど、私はぜんっぜんそうじゃなかった。

 

あとふと思い出したのは、以前勤めていた会社で、入社してみたら社内がグチャグチャってことがあって。偏見、差別、セクハラ、パワハラ、家庭内不和を社内に持ち込んだり、みんながみんな、なんか冴えない、しかも互いにまとわりついて足を引っ張りあっているようなドロ〜っとした感じになっていることに少しずつ気づいて、私は、しいたけ占いとか、石井ゆかりさんの占いとか読みながら、「私の人生に1ミリも関係ない人たちと毎日9時間以上も過ごして、何をやってるんだ?」と思いまくってたこともある。

 

こういうことがしたくなくて、自分の人生をもっと歩みたくて、24時間自分でいたくて仕事を作りながら生きていこうと決めたのに、なぜかまた、他人の人生に取り込まれそうになってる。おかしいおかしい!何だ何だ!

 

こういう、人生の中での「違和感」ってキャッチするのが難しいこともあって、違和感の原因を本の中では「ノイズ」という言葉で表されてたりする。

 自分の違和感を大切にしてスルーしないってのは大事。

 

こういう違和感・ノイズって、大々的にはズレてなくて、自分のできる範囲のことだし、やりたいことの範囲だから判断がつきにくい。そういう「結果自分の人生とは関係ない人」たちも世間的には良い人だったりすることもありますしね。

 

で、こういうことって、何も仕事とかそういうことだけじゃないんですよね。分かんなくなっちゃうと、自分が何を食べたいのかさえも分からないんですよ。

 

いろんなバリエーションはありますが、誰かと一緒に食事をしても「何をオーダーしたら相手の気分を害さないかな?」とかという思考回路になってくる。これがね、一事が万事で、どこまでも行っちゃうんですよ。服選び、家選び、趣味や日常の過ごし方まで。自分なんて存在しなくなっちゃうわけです。

 

でもこうやって、無意識に、もしくは良かれと思って、自分の本来の性質を隠したり、こねくり回して、世の中的に正しそうなノイズにチャンネルを合わせて生きてても、結局自分って出てきちゃうというか。それを抑え込んだりしまくって、ズレが最大限になると、病気になったりするんだろうなと思ってる。

自分の本来の性質って変えられないからな〜。何だかんだ。

 

というわけで、

なんか変だな〜、

自分で選んで生きてるのに生きづらいな〜、

とモヤモヤしている人におすすめです。

 

 あと、最後に。

ティッチャイ、めっちゃ美味しくて楽しくなるので、オススメです!Vegan対応もしてくれるし安心。まじで、行ってみて。

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今、生きててよかったなと思えることのひとつ

今、生きててよかったなと思えることのひとつは、

自分の中で、できるだけ一番ピュアな質問を自分に問い続けることができる。そしてそれを実行に移す未来を描くことができる。

ということです。

 

自分自身に何がしたいかなと問いかける。

「また大学に行き、専門的に学びたい」

「ヨガやピラティスの講師資格を取るのもいいな。英語環境下でとって、ついでに関連の英語も話せるようになろう」

「政治にもっと違う方法で関わりたい」

「暮らす体は自分で癒せるんだよ、ってみんなに伝えたい」

「どこかの劇団に属したりして、人の間で技術を磨きたい」

「もっと体のことを知りたい」

「自分の過去のことを知りたい」

 

私は今をどう過ごしたいかな、と問いかける。

「青空が綺麗だからそれだけでいいや〜」

「本を読もう」

「いや洗濯物が先かな」

「日記を書こう」

「絵を描こう」

 

将来はどうやって暮らしたいかなあ、とふと思う。

「平家に住んで」

「犬や鶏や豚も一緒に暮らして」

「友達も住んだり、訪ねてきたり、泊まっていったりして」

「朝ごはんと夜ごはんも大切にして」

「パズルなんかもして」

「散歩やジョギングもして」

「旅もして」

「日本に住んでなくてもいいし」

 

こういう自由な問いと答えを自分に対してできるのは、今までの職歴をかなぐり捨てたような生活をしているからだろうし、踊りを中心とした自分に嘘やごまかしの少ない選択肢をしているから、思考が自由になってきたというのは大きいなと思います。

随分と頭が自由になったものだと思う。

ここに至るまでは、親の育て方の影響でこんな思考回路や強迫観念もありました。

例えば、

 

・何かやり始めたら、どんなことがあっても辞めるのは恥。物事を辞めるのは人間失格(辞めてはいけない、逃げてはいけない)

・親に認められる生き方しかしてはいけないし、それ以外の選択肢はない。

・正社員で安定した収入がなければならない(そうでないと親に怒られる)

・何か新しいことをするには、親が理解できかつ価値を置ける壮大なストーリーや理由が、彼らの説得に必要。(何から何まで理由が必要。思いつきや、心の中の閃きは意味が無いと判断される。理屈っぽくなりました笑)

・日常生活が幸せではないのが当たり前、幸せは遠い未来にある(めっちゃ矛盾してる。死ぬまで幸せになれない)

・世の中には価値がない物や人がある(「そしてそれは私」が加わる)

・お金さえあれば安心(人間的な繋がりは役に立たない)

・人に使われる人間は無価値、人の上に立たなければならない(と言いながら、「正社員でなければならない」と言われる矛盾)

・私には何もできない、価値もない。

・お風呂は夜に入らなければならず、朝のシャワーは以ての外。恥ずかしい行為。

・外食や中食は恥ずかしいこと。お金の無駄。

 

今もこういった類の強迫観念が浮かび上がってくることはありますが、随分減りました。思考の癖も変わり、随分、自分を大切にした選択ができるようになってきました。

親が、「こうやって生きたら幸せになる」と示し、強制した生き方は、私にはあまり必要のないものでした。

そしてこういう極端な考え方をする両親に対しても、何らかの相当の被害者なのだと思えるにも至りました。事実、専門書にも暴力やDVは連鎖するので、やってしまう人も被害を受けて育っていると書いてあるのですが、それを「そうだよなあ」と事実として受け止められるようになったというか。

 

思えば、「幸せ」という概念や実感も私にとってはここ1年ほどの新しいもので、ようやく分かるようになったものです。それまでは、「楽しい!」「テンションが上がる!」などはありましたし、自分の仕事が認められて「これは幸せなことなのだ」という感覚はありましたが、みぞおちのへんから立ち昇るような「幸せだなあ〜」という暖かい気持ちは感じたことがありませんでした。無かったんですよ。本当に。

書いてて、信じられないようなウソくさいような感じになっちゃうかな〜と思うけど、本当だから仕方ない。

 

私は、死ぬまで、少しずつ、賢くなりたい。それは知識がたくさん欲しいということではない。人間の叡智的な意味で、賢くなって行きたい。知らないことを知って、感じ、考えることを続けたいわけです。知らないからこそ、分からないからこそ、関わる誰かを否定したり、彼らのことを否認したりしたくないと思うのです。

こんなことを考えられるだけで、随分遠くに来たなあという思いです。2019年も春がきましたね。

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ちょっと前に描いた絵。上手く描こうとしないぞ〜と挑んでます。はい。

 

 

 

 

 

世界の隅っこから。ハルコロ、ゴールデンカムイ。知識と愛について。

ついに、数年ぶりに念願のハルコロへ行きました。個人比で、本当に「ついに」感溢れ、ワクワク。

ハルコロは新大久保駅から徒歩3分ほどのアイヌ料理のお店。初めて行ったのは、アンティファでパンクの友人の紹介でした。その時も、「アイヌ料理なんて珍しいし、カッコいい!」と思ったのですが、社会の教科書で習うくらいの知識と、反差別運動などしていた知識から出た感想でした。

 

近年、アイヌ民謡を自分の踊りに使うこともあり、漫画・アニメ「ゴールデンカムイ」のファンたる私は、アイヌ知識を少々ばかり身につけ、ハルコロを再訪したのでした。ついに、憧れの「オハウ」(具沢山のスープ)を食べ、ユク(鹿肉)も頂き、ビールはサッポロ黒星と完璧な夜を過ごしたのでした。

「ヒンナヒンナ」(アイヌの言葉で、食べ物とその神に感謝する意味)だと思いました。幸せ。

メニューに書かれたアイヌ語の料理名や材料名が分かり、壁を埋め尽くすポスターや刺繍の模様や木の飾りが、得た知識によって、世界が意味を持って迫ってくる体験をしました。それらが彼らの文化の一部であって、意味や理由を持ってお店に置かれていることが認識できた。具体的には分からないものの方が多いけれど、前より、アレもコレもアイヌ文化に由来した何かであることに気づけます。胸がいっぱいになってワクワクして、嬉しくてたまらなかった。

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シンプルなオハウ。

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ゴールデンカムイ作者、野田サトル先生のサイン(他にもある)

 

一緒に行った友人やパートナーも、そのルーツは、ウガンダ、インド、シンガポール、米国など。私は日本。話題は、目の前の料理と行ったり来たりしながら、日本の戦時中の公文書アーカイブス(まじでなんでも見れると聞いて驚き!)や、アイヌの音楽や、オススメのアニメ(「ポプテピピック」でひと笑い。大好き。「ガイコツ書店員本田さん」をオススメしました。大好き。)、南極を通るとイギリスとオーストラリアが近いこと、政治など。

 

ハルコロでご飯食べて、自分の感覚に知識の喜びと、愛が入り混じっているなと気づいた。アイヌのこと知ってたけど、愛は無かった。左翼らしいシンパシーはあった。知るうちに、「面白い」が生まれ、「もっと知りたい」、から、「好き」が芽生え、美味しい食事で追体験するに至り、これは愛だなあと思った。他者とその文化への愛と、知らぬものへの愛と、知識や知る・学ぶということへの愛。

 

私は、知ることが好き。

知識は世界を美しくする。

知識が世界を広げ、意味をもたらし、愛を芽生えさせる。

また、愛は知をもたらし、知は、また世界へと繋げてくれる。

知識。叡智。愛。

この世界には異なるものしかない。

そしていつでも、全ては並立するだけだ。

美しい混沌。

 

本当に、差別や人種差別って終わってるなと思った。

自分は差別しません、と自分の聖人性を顕示したいわけじゃない。私の中には「差別したくないし、同時にされたくない」尊厳と意思があるだけだ。私だって、自分でも気づいていない偏見や差別意識がある。これは、恥ずかしいけど、絶対ある。自分の中で、解決していないものもある。

相手の文化を知ることは面白いし、受け入れがたいほどに違うこともある。そういう時はとても面倒臭かったりする。コンフリクトが生まれることがある。「キー!なんなの?!」となることもある(野宿者運動をハードコアにしてた時によくなってた笑)。でも「そういうのもある」となる。その人の背景、社会のこと、歴史とその流れが見えるようになる。きっと、相手だって自分に対してそう思ってたりするのだろう。「分からん。なんだこいつ」って。

その「分からん」と「だから相手を否定する」の間がないのは本当にしんどい。自分の「分からない」と「だからありえない」が直結してるのは短絡的だと思う。

世界を認知する中で、相手を否定することは、やっぱり違うと思うんだ。相手を否定することで、自分の優位性を示そうとしたりすることと繋がっていて、とても捻れている。

 

どこだって世界の中心だし、どこだって世界の隅っこなんだ。

 

知らないことだらけの世界で、

愛でもって、自分の世界が広がること。

 

めっちゃ楽しかったから、帰りは、はしゃいで飛び跳ねて走って帰った。

犬のようだった。

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